2009年11月11日 (水)

190年

 西暦190年、第13代天皇の成務(せいむ)天皇が107歳で崩御しました。次代は日本武尊(やまとたけるのみこと)の第2子、仲哀(ちゅうあい)天皇が継ぎます。

 成務天皇は景行天皇の子として生まれ、西暦121年、24歳で立太子となります。西暦130年に父が崩御したので、翌131年正月に即位しました。

 西暦133年、同日生まれの武内宿禰(たけのうちすくね)を大臣とし、協力して治世に当たります。西暦135年には地方行政機構の整備を図るため、諸国に行政区画として国郡(くにこおり)、県邑(あがたむら)を定めました。そして、国郡には造長(くにのみやつこ)、県邑には稲置(いなぎ)を任命したのであります。また、山河を境にして国県を分け、阡陌(せんぱく)という南北東西の道に沿って邑里(むら)を定めました。

 日本書紀には、成務天皇の世は安定し、天下太平であったと記録されています。しかし、魏志倭人伝には、ちょうど成務天皇の時代に倭国大乱があったと書かれています。当時の日本には多くの国があったので、魏志倭人伝のいう倭の国は九州地方だけだったのかも知れません。そうすると卑弥呼がこの頃治めた邪馬台国は九州説ということになります。現在では畿内説が当たり前になっているので、日本書紀の信憑性が疑われることになります。近畿地方のどこかに卑弥呼がいて、成務天皇が治めた地方があったと考えるのは無理があるのでしょうか。

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2009年11月10日 (火)

189年

 西暦189年、4月に後漢代12代皇帝の劉宏が崩御し、孝霊皇帝と諡され霊帝(れいてい)と呼ばれるようになりました。代13代皇帝には劉弁が、母、何(か)太后とその兄の大将軍、何進により擁立されました。

 何太后は摂政皇太后となり、政敵だった董(とう)太后を洛陽から追放しました。董太后は劉宏の母親で一部の宦官と結託し権勢を振るってい、劉宏の寵妃、王美人の子供の劉協を養育していたのであります。王美人は何太后が嫉妬のため毒殺されています。

 新政権移行後、間もなく何太后の政権を支える何進と宦官の集団、十常侍(じゅうじょうじ)とが争いを起こします。何進は十常侍を一掃しようと、董卓(とうたく)を洛陽に呼んだのあります。宦官誅滅が進む中、逆に何進は殺されてしまいます。袁紹(えんしょう)らは何進派として宦官に反撃を行ったので、中常侍の一人、段珪(だんけい)が劉弁と劉協を連れ去りました。その一行を董卓は追討し、劉弁らを救出したのであります。

 8月、董卓は洛陽に入ると何進の軍勢を吸収し、更に政権を手中に収めてしまいます。おさめた。また執金吾(しつきんご)という官職の丁原(ていげん)の軍士を取り込むべく丁原の部下、呂布を誑(たぶら)かし、呂布に丁原を殺させてしまいます。これで董卓は丁原軍の兵と、名高い武勇の士、呂布を自分のものにしたのであります。その後、董卓は呂布を養子にしました。9月、圧倒的な兵力を元に董卓は政権を手中に収め、何太后を脅して劉弁を廃させ、劉協を皇帝に擁立したのであります。何太后じゃ董太后に圧力をかけたことを問題にし、永安宮に幽閉し毒殺しました。11月、董卓は総理大臣に相当する官職、相国(しょうこく)に就き、専横が始まりました。

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2009年11月 9日 (月)

188年

 西暦188年、この頃から卑弥呼の治世が始まりました。謎が多い邪馬台国の女王であります。

 邪馬台国は三国志の魏志倭人伝に登場し、後漢書の東夷列にも記録されています。両書とも実録の史書なので、倭国に邪馬台国があったことは間違いないでしょう。

 邪馬台国は1世紀中ごろから2世紀初頭に成立し、当初は男王が治めていました。ところが国家成立から70~80年経って、倭国全体で長期にわたる倭国大乱と呼ばれる騒乱が起きたのであります。この内戦は女王、卑弥呼を共立することによって収まったのであります。魏志倭人伝には、鬼道を用いてよく衆を惑わし、既に年長で、夫は無かったと記録されています。

 邪馬台国も卑弥呼も古事記や日本書紀との関連が明確ではありません。古事記も日本書紀も神話ベースの史書なので、実録ベースの三国志や後漢書と対応させるのは無理かも知れません。日本書紀では仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后、神功(じんぐう)皇后を卑弥呼としています。しかし、邪馬台国と大和政権の関係が明確でありませんし、独身を貫いた卑弥呼とは立場が違い過ぎます。その他にも、九州にあった熊襲(くまそ)の女酋長とする説や、天照大神だったとする説があります。何れにせよ、2000年近く前、われわれの祖先は卑弥呼という女王を王位に就けることにより、国内の安定を得ていたのであります。

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2009年11月 8日 (日)

187年

 西暦187年、後漢で韓遂(かんすい)が反乱を起こしました。彼が中央に反抗したのはこれで2回目で、最初は黄巾の乱が落ち着いた184年末でありました。

 韓遂は涼州の地で名を挙げ、計吏として洛陽に上京しました。そのとき、 大将軍の何進(かしん)に宦官を誅滅するよう進言したのであります。しかし何進はそれに応じなかったので、韓遂は帰郷を申し出て涼州に戻りました。

 帰郷後、羌(きょう)族に押し立てられ、辺章(へんしょう)、北宮玉(ほっきゅうぎょく)らと手を結んで後漢に対して反乱を起こしたのであります。これは董卓(とうたく)によって鎮圧されたのですが、その後も羌族の支持を受け涼州に割拠しました。そして、辺章、北宮玉を殺すと、王國(おうこく)を擁立したのであります。

 西暦187年、韓遂は馬騰(ばとう)と共に再び反乱を起こしました。韓遂、王國、馬騰は義兄弟の契りを結んだと言われます。張温(ちょうおん)の大軍が派遣されてくることを知ると降伏しました。韓遂はこの様に30年以上も中央に反乱を繰り返して行くのであります。この時代の群雄の一人であり、これだけ長期に反抗を続ける点は劉備にも匹敵するのであります。しかし、韓遂と劉備が異なる点は、韓遂が常にナンバー2の地位で戦う点であります。しかもトップの首をすげ替えるのは韓遂自身でありました。

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2009年11月 7日 (土)

186年

 西暦186年、朝鮮半島の新羅では、第9代王、伐休尼師今(ボルヒュイサグム)3年目の治世を迎えました。伐休尼師今の即位は西暦184年であります。その年は後漢の転換点、黄巾の乱がありましたので、新羅の新王即位の話題より優先しました。新羅は日本にとって重要な国ですので、2年遅れですが、今宵は新羅184年を勉強したいと思います。

 西暦184年、第8代王、阿達羅尼師今(アダルライサグム)が崩御しました。先代、逸聖尼師今(イルソンイサグム)の長男で先代が崩御した西暦154年に即位して在位31年目のことでありました。

 新羅は隣国の百済と、靺鞨(まっかつ)に対抗するため同盟体制を組んでいたのですが、阿達羅尼師今の世で崩れることになります。きっかけは西暦165年の阿飡の亡命でした。新羅の阿飡、吉宣(キルソン)が謀反を企てたのですが発覚し、誅殺を恐れ百済に亡命したのであります。阿達羅尼師今は百済に身柄の返還を求めたのですが、百済王の蓋婁王(ケルワン)が匿(かくま)ったため、百済への侵攻を開始しました。これより、新羅と百済は交戦状態となり、互いに侵攻を繰り返したのであります。

 阿達羅尼師今の時代は倭人の話題が多く出現します。西暦157年には浜辺に暮らしていた夫婦、烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)が日本に行ったことや、西暦158年は倭人が来聘したと記録されています。

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2009年11月 6日 (金)

185年

 西暦185年、12月7日、ケンタウルス座に超新星が出現しました。-8等級まで明るく輝いたと言われます。

 超新星(スーパーノヴァ)とは、星が新たに誕生するように見えるから新星と名づけられたこととは逆に、大質量の恒星がその一生を終えるときの大爆発であります。西暦185年に後漢書に記録されたこの超新星はSN185と名付けられています。

 黄巾の乱は収まったのですが、腐敗しきった後漢が滅びるのは時間の問題で、誰もがこのSN185を後漢滅亡の前兆と見なしたのではないでしょうか。-8等級の明るさは記録が残っている超新星の明るさで2番目のものです。

 SN185はⅠ型の超新星だったことがわかっています。超新星にはⅠ型とⅡ型があることが知られています。Ⅰ型とは、白色矮星に伴星から降り積もった物質がある質量を超えたとき、内部で爆発的な核融合が起こり星全体が爆発するものです。Ⅱ型とは星の進化の末期で、中心部で鉄の光分解が生じたときに星内部に衝撃波が生じて起きる爆発であります。Ⅰ形超新星SN185は、黄巾の乱が終わり諸国の群雄が朝廷を圧迫して戦乱の世に移って行く、将に三国時代そのものの象徴だったのではないでしょうか。SN185が起きた位置は地球から約3200光年であります。大宇宙は3200年前に後漢の滅亡を予想していたのです。

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2009年11月 5日 (木)

184年

 西暦184年、後漢で太平道の教祖張角(ちょうかく)が黄巾(こうきん)の乱を起こします。三国時代が幕開けました。

 後漢は宦官による専制政治に陥った上、民衆には重税が課せられ、干ばつ、疫病、凶作と天変地異が重なっていました。苦しんでいた民衆は、まじないで病を治す張角の太平道にすがり始めました。張角は各地の流民を集めて黄巾賊を結成し「蒼天すでに死し、黄天まさに立つべし」とスローガンを立てたのあります。数十万もの信者を三十六の部隊に分け、三十六箇所で黄巾の乱を同時に起こしました。後漢打倒を目指して立ち上がったものの、すぐに彼等は各地の村を襲っては強盗略奪を繰り返すただの暴徒となってしまいました。

 涿県(たくけん)楼桑村で劉備玄徳(りゅうびげんとく)は、漢の中山靖王、劉勝の末裔、景帝の血を引く由緒正しい人物と言われ育ちました。草履を売りながら天下に出る手はないものかと思っていたところ、幽州の太守、劉焉(りゅうえん)が掲げた義軍募集の高札を目にします。高札を前に入隊しようか辞めようか躊躇している劉備を後ろから張飛益徳(ちょうひえきとく)が一喝しました。劉備は目覚め、張飛の兄貴分、関羽雲長(かんううんちょう)と義兄弟の契りを結び、生まれた時は違えど死ぬときは同じと混乱の世を沈める戦いを決意したのであります。

 義兵を結成した劉備は劉焉のもとに駆け付けました。劉焉は同じ劉一族なので劉備を歓迎し、義理の甥として扱いました。最初の任務は大興山に陣取る黄巾賊の退治であります。関羽、張飛と共に一斉攻撃で敵将を討ち取りました。その後も青州城の救援や河南の決戦で活躍し、黄巾賊の副頭領で張角の弟、張宝を倒します。西南方面では、後の三国志の主人公の一人となる孫権の父、孫堅が黄巾賊を破りました。官軍の皇甫嵩(こうほすう)や曹操も、もう一人の張角の弟で副頭領の張梁を討ち取り、病を患っていた張角が倒れ、黄巾の乱は収まりました。こうして劉備、曹操、孫堅の名が天下に轟いたのであります。

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2009年11月 4日 (水)

183年

 西暦183年、元老院の一メンバーが再びコンモドゥス帝を暗殺しようとします。コンモドゥスには幸いなことに、今回も失敗してしまいました。

 去年の暗殺首謀者であるルキラは実姉ということもあり、カプリ島への流刑処分だったのですが、情緒不安定になったコンモドゥスはルキラをローマへ呼び寄せ処刑してしまったのであります。

 これらの事件の後、コンモドゥスは疑心暗鬼となり公の場に一切姿を現さなくなりました。情緒不安定となり、全ての用件は近衛隊長官ペレンニスを通して命ずるようになったのであります。共同皇帝となってから放蕩三昧だったコンモドゥスですが、父マルクスが崩御して単独皇帝となってからは一応帝王らしきことはやるようになっていました。しかし再び、昼は戦車競技、夜はいかがわしい宴会という具合に放蕩生活に戻ってしまったのです。西暦161年生まれのコンモドゥスは未だ22歳の若者であります。その彼が開催したいかがわしい宴会とは、美しいと評判の300人の娼婦や人妻と300人の若い男性をパラティウム宮殿に集め、男女関係なしに乱れるというものでありました。

 コンモドゥスが国政を顧みなくなった頃、ハドリアヌスの長城を越えてスコットランド諸部族が属州ブリタニアに侵攻して来ました。ローマ軍が撃退して追い返したものの、この兵士達は給料が支払われないので反乱を起こしたのであります。その兵士達が大挙してローマに押しかけて来ると、ペレンニスを引き渡し見殺しにしてしまったのであります。ペレンニス亡き後は侍従クレアンデルに国務を任せました。このクレアンデルは賄賂で官職を売りさばく奸臣で、ローマの政治は乱れてゆくのであります。

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2009年11月 3日 (火)

182年

 西暦182年、ローマ帝国のコンモドゥス帝を暗殺する最初の計画が失敗しました。コンモドゥスは在位中に何度も暗殺計画があったのであります。

 最初の暗殺計画の首謀者は実姉ルキラでありました。彼女の計画は弟を殺害し、夫のポンペイアを皇帝に即位させるというものでした。

 ルキラは彼女の情夫で議員のクインティアヌスに殺害を依頼しました。コンモドゥスが宮殿に戻ろうとコロッセウムの柱廊を歩いているとき、待ち伏せていたクィンティアヌスがマントに隠した剣を取り出し、思い知れ元老院からの贈り物だと叫びながら襲いかかったのです。大声を出したため親衛隊が駆けつけ取り押さえられ、コンモドゥスは助かったのであります。

 クィンティアヌスは拷問を受け、首謀者が姉ルキラと自白しました。コンモドゥスにとっては、実姉が首謀者だったとはさぞかしショックだったでありましょう。この暗殺に関わった者は全員捕えられ、厳しく罰っせられました。姉のルキラはカプリ島に流刑しました。

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2009年11月 2日 (月)

181年

 西暦181年、ニュージーランド北島のタウポで火山が噴火しました。これは過去5000年間で最大のものであり、遠くローマや中国からも観測されたのであります。

 現在、噴火跡はニュージーランド最大の湖、タウポ湖となっています。湖面積616km平米は琵琶湖にも迫る大きさであり、水深は186mにもなります。カルデラ湖としても世界有数のものになります。

 ニュージーランドに最初に住みだした人は、9世紀頃のポリネシア人であり、マオリと呼ばれています。彼らが到着したときに既にタウポ湖はあったので、その誕生にマオリは伝説を作りました。テ・アラワ部族のトフンガ(司祭)の長、ナトイランギがタウポを見た時、不毛なくぼ地でありました。新しい森を育てようと大きなトタラの木を1本抜いてくぼ地に放り込むと、突風で木はひっくり返り枝側が突き刺さりました。すると、地面にできた穴から水が溢れ出、くぼ地は湖になったのであります。

 タウポ湖のあたりは自然が豊富で、湖から流れ出す川はワイカト川だけであります。ニュージーランド最長の川ワイカトはマオリ語で流れる水を意味し、フカ滝を作りだしています。付近は火山性の地熱地帯であり、ワイラケイ地熱発電所があります。ニュージーランドでタウポ湖を観光されたときは、この湖誕生の大噴火は遠く離れた後漢で若き曹操も観測したのだと思いながら楽しんでいただきたいと思います。タウボの大噴火は消え行く後漢のフィナーレだったのでしょうか、来たるべく三国時代のプレリュードだったのでしょうか。

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