108つの煩悩(15)

 108つの煩悩の十五番目は、

集締疑(じったいぎ)

である。集締と疑でできた言葉である。五つ目の煩悩の苦締疑の苦締が集締に代わっているのがわかる。すなわち、集締疑とは、真実を疑うことが苦しみの原因という意味になる。

 疑うことは重要なことで、疑う能力があるから騙されずに済む。しかし、真実まで疑ってしまえば、それは苦しみとなってしまう。どうすれば真実か嘘かを見抜くことができるだろうか。まずは、多くの真実に触れ、それら真実を信じることである。

 

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2021年1月14日 (木)

108つの煩悩(14)


 108つの煩悩の十四番目は、

集締慢(じったいまん)

である。集締と慢が合わさった言葉である。四つ目の煩悩の苦締慢の苦締が集締に代わった形である。よって、集締慢とは、おごりが苦しみの原因ということである。

 上から目線が嫌われるのは、煩悩の原因だからということになる。謙虚に徹するのが必ずしも良いとは思えないが、高慢でいて良いことは何もない。

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2021年1月13日 (水)

108つの煩悩(13)

 108つの煩悩の十三番目は、

集締癡(じったいち)

である。集締と癡で合成された言葉である。三つ目の煩悩の苦締癡の苦締が集締に代わっている。つまり、
集締癡とは、無知が苦しみの原因という意味である。

 貪、瞋、癡は三毒である。三毒が悪の根源であり、三毒から十悪が生まれる。十悪とは、殺生、偸盗、邪婬、妄語、綺語、悪口、両舌、慳貪、瞋恚、邪見という人間のわかりやすい醜さである。

 

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2021年1月12日 (火)

108つの煩悩(12)

 108つの煩悩の十二番目は

集締瞋(じったいしん)

である。集締と瞋でできた言葉である。二つ目の煩悩の苦締瞋の苦締が集締に代わったものになる。集締は苦には原因があるという真理という意味だった。よって、集締瞋とは、「瞋」が苦しみの原因という意味になる。

 瞋とは、苦締瞋で説明した通り「怒り」である。怒りの他、恨み、憎しみの意味もある。現代人は怒りと恨みは別の意味だと思っているものの、仏教では同じものになっている。

 

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2021年1月11日 (月)

108つの煩悩(11)

 108つの煩悩の十一番目は、

集締貪(じったいとん)

である。集締と貪の合わせ言葉になる。一つ目の煩悩の苦締貪の苦締が集締に代わった形だ。それでは、集締とはどういう意味だろうか。

 苦締や集締の「締」は、諦めるという意味ではなく、真理という意味である。したがって、苦締は苦しいという真理ということで、人生は苦しいという真理ということである。集締の「集」は集めるという意味ではなく、原因といういみである。したがって、集締は苦には原因があるという真理ということになる。

 よって、集締貪とは、人生が苦しい原因は必要以上に求めるからだということである。欲望が苦しみの原因なのだ。

 

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2021年1月10日 (日)

108つの煩悩(10)

 108つの煩悩の十番目は、

苦締戒禁取見(くたいかいごんしゅけん)

である。これまでと同じく、苦締と戒禁取見の合成である。戒禁取見とは、誤った教えを信じることである。仏教で教えとは悟りを開く方法なので、誤った教えで悟りを開くことというのが本来の意味である。したがって、苦締戒禁取見とは、誤った教えで悟りを開こうとして苦しむということである。

 有身見、辺執見、邪見、見取見、戒禁取見の五つを五悪見という。五毒と五悪見が煩悩の中核を成すものであり、煩悩の半分が考え方、見方に起因するのである。フェイクニュースも人間の煩悩といえる。

 

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2021年1月 9日 (土)

108つの煩悩(9)

 108つの煩悩の九つ目は、

苦締見取見(くたいけんしゅけん)

である。苦締と見取見でどんな意味だろうか。見取見とは、間違った見解を誤って勝れた見解とする見解である。間違った見解とは、有身見、辺見、邪見の三見を指す。これが見取見の最初の「見」で、「取」は執われているという意味で、最後の「見」が見解である。よって苦締見取見とは、間違った考え方を優れていると思って苦しむという意味になる。

 有身見、辺見、邪見それぞれが煩悩であり、それらを優れていると考えるのも煩悩である。ものの見方、考え方自体が煩悩に繋がるのだ。

 

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2021年1月 8日 (金)

108つの煩悩(8)

 108つの煩悩の八つ目は、

苦締邪見(くたいじゃけん)

である。苦締と邪見が合わさった煩悩はどんなものだろうか。邪見とは、間違った見解である。悪見ともいう。したがって、苦締邪見とは間違った見解に苦しむということになる。正しい見解は正見(しょうけん)であり、仏教では正見が求められる。

 悟りを開くためには、八正道(はっしょうどう)を実践しなければならない。八正道で最初に挙げらえれているのが、正見である。涅槃に至る第一歩は、正しい見解を持つことなのだ。

 

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2021年1月 7日 (木)

108つの煩悩(7)

 108つの煩悩の七つ目は、

苦締辺執見(くたいへんじっけん)

である。苦締と辺執見で造られた言葉である。辺執見とは、極端に片寄った考え方(見解)ということで、仏教での極端に片寄った見解とは、自分の死後は無になると考える見解と死後も有りつづけると考える見解のどちらかをいう。

 無になる考え方を断見といい、有りつづける考え方を常見という。仏教ではどちらでもないことを説いている。すなわち、死して全て無に帰すのではなく、魂が永久不滅でもないという中庸の教えである。

 

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2021年1月 6日 (水)

108つの煩悩(6)

 108つの煩悩の六つ目は、

苦締有身見(くたいうけんしん)

である。苦締と有身見から成る言葉である。有身見とは、仏教が説く「空」に対する概念である。仏教の空とは、無我ということである。ところが、われわれ人間には自我がある。この自我あるという思いを「有身」と呼び、そういう見解なので有身見と名付けられた。

 有身見のおかげで、事象に関し所有に執われてしまう。苦締有身見とは、所有に執われ苦しむということである。所有することは煩悩なのである。

 

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