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2009年4月30日 (木)

克己復礼

 克己復礼(こっきふくれい)は、己(おのれ)に克(か)ちて礼に復す、と読む。私情や私欲に打ち勝って、社会の規範や礼儀にかなった行いをすることだ。

 出典は論語の顔淵(がんえん)である。顔淵は孔子の弟子の中で最も優れた十人をさす孔門十哲(こうもんじってつ)の一人だ。

 子曰、克己復礼為仁。子曰く、己に克ちて礼に復るを仁と為す、と。これは顔淵が仁について問われたときの孔子の答えである。

 また、孔子は礼について雍也(ようや)で、博文約礼(はくぶんやくれい)と言っている。すなわち、君子はできるだけ広く書物を学び、これを礼によってしめくくって行動するようにすれば正しい道からはずれることはないということだ。

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2009年4月29日 (水)

下学上達

 下学上達(かがくじょうたつ)は、。下学して上達す、と読む。手近なところから学び始めて、次第に進歩向上してゆくこと。

 出典は論語の憲問(けんもん)だ。憲とは原憲(げんけん)のことで、孔子の弟子、七十子(しちじっし)の一人である。

 子曰、不怨天、不尤人、下学而上達。知我者其天乎。子曰く、天を怨(うら)みず人を尤(とが)めず、下学して上達す。我を知る者は其(そ)れ天なるか、と。

 いきなり難しいことを勉強するのではなく、身近なことからコツコツ学べば良いということだ。そしてそこから高度なことを学んで行けばやがて天にも手が届くのかも知れない。

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2009年4月28日 (火)

訥言敏行

 訥言敏行(とつげんびんこう)は、言(げん)に訥(とつ)にして行(おこな)いに敏(びん)なり、と読む。徳のある人は口数が少なく行動に敏速であるという意味だ。

 出典は論語である。そろそろ四字熟語のネタが尽きて来たので、最後の一週間は論語に登場する四字熟語で締めようかと思う。

 論語の里仁(りじん)に、「子曰、君子欲訥於言而敏於行。」とある。子曰く、君子は言に訥にして、行いに敏ならんと欲す、と。

 論語では、剛毅木訥(ごうきぼくとつ)が仁にちかいとも言っている。剛毅木訥は意志が強く口数が少ないという意味である。2500年前は浮ついた言葉よりも実行や態度を重要視していたのだ。

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2009年4月27日 (月)

天地玄黄

 天地玄黄(てんちげんこう)とは、天は黒色で地は黄色であるということだ。玄は黒色という意味だが、玄の表す黒というのは赤や黄も含まれた黒であり、玄には奥深いという意味もあって、天を玄としたのではないだろうか。

 出典は易経(えききょう)の坤(こん)なのだが、むしろ千字文の第一句として有名。千字文は中国南朝時代、梁武帝の命により文官の周興嗣(しゅうこうし)が考えた、四字熟語が二百五十区で一字も重複がない千字の長詩である。

 周興嗣は千字文を一夜で考案し、皇帝に献上したときには白髪になっていたという伝説がある。その後、各種千字文が創作されたが、周興嗣の千字文が最も普及し多くの国で漢字読本となっている。

 千字文は、「天地玄黄。宇宙洪荒。」で始まり、「謂語助者。焉哉乎也。」で締めくくられている。天地は玄黄、宇宙は洪荒なりで始まり、語助と謂う者は、焉(えん)、哉(さい)、乎(こ)、也(や)なりで終わっているということだ。

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2009年4月26日 (日)

漱石枕流

 漱石枕流(そうせきちんりゅう)とは、夏目漱石の由来となった故事だ。石に漱(くちすす)ぎ流れに枕すると読む。

 出典は晋書(しんじょ)の孫楚伝(そんそでん)である。孫楚は中国魏から西晋時代の政治家であり武将だ。

  孫楚が隠居しようと友人の王済(おうさい)に、これから石を枕し流れに漱ぐ人生を送るというべきところを、石に嗽ぎ流れに枕すると言ってしまった。王済に間違いを突っ込まれると、流れを枕するのは汚れた俗事から耳を洗うため、石に漱ぐのは汚れた歯を磨くからと返した。

 王済はこの切り返しをさすがと思ったので、感心することを「流石」というのはこの故事が元になったという説もある。しかし、漱石枕流自体は負け惜しみのたとえとして使われている。

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2009年4月25日 (土)

咳唾成珠

 咳唾成珠(がいだせいじゅ)は、咳唾(がいだ)珠(たま)を成す、と読む。意味は二通りあり、ちょっと口から出る言葉も玉のように美しいというものと、権力者の言葉は一言一句が珠玉のように尊ばれるばかりでなく、咳や唾まで畏れ敬われるというものである。

 初めの意味の出典は晋書(しんじょ)の夏侯湛伝(かこうたんでん)だ。夏侯湛は中国西晋時代の政治家であり文学者である。父の夏侯荘は、三国志の曹操に仕えた元勲夏侯淵の四男夏侯威の子で、母は司馬師の妻、羊徽瑜の姉妹だ。

 咳唾成珠、揮袂出風雲。咳唾、珠を成し、袂(たもと)を揮(ふる)えば風雲(ふううん)を出(いだ)す。

 二番目の意味の出典は李白の詩「妾薄命」である。咳唾落九天、随風生珠玉。咳唾九天より落ち、風に随(したが)ひて珠玉を生ず。

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2009年4月24日 (金)

行住坐臥

 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)とは、日常の立ち居振る舞い、起居動作のことである。転じて、普段、常々を意味する。

 出典は心地観経(しんじかんぎょう)である。心地観経は大乗経典の一つで、父母、衆生(しゅじょう)、国王、三宝の四恩を説く。

 「行」は歩くこと、「住」は止まること、「坐」は座ること、「臥」は寝ることである。この4つが一切の行動の基本になるため、仏教ではこれを四威儀(しいぎ)と呼んで規律を定めた。

 仏門に帰依する者は、行住坐臥の基本動作に四威儀を課して修行に励んでいると見られて当然。袈裟姿なら、コンビニ前に駐車した車内で漫画を読んだりしないで欲しいものだ。

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2009年4月23日 (木)

群軽折軸

 群軽折軸(ぐんけいせつじく)は、「群軽、軸を折おる」と読む。小さい力でも沢山合わせ集めれば大きな力となるたとえである。

 出典は戦国策だ。戦国策は以前紹介した「驥服塩車」と同一出典だが、あちらは楚策からの引用で、こちらは魏策である。

 群軽とは、軽いものが多く集まったものという意味だ。それを載せた車の軸が折れてしまったので、軽いものでも多くなれば重くなって力になるという意味となった。

 塵も積もれば山となると同様の意味だが、群軽折軸はパワーを感じさせる熟語だ。重くなった結果、軸まで折ってしまうという力強い概念が含まれているからである。コツコツと努力を重ねて壁を打ち破ろう。

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2009年4月22日 (水)

言笑自若

 言笑自若(げんしょうじじゃく)とは、何があっても平然としているたとえである。三国志で有名な関羽の様子を表現した。

 出典は蜀志(しょくし)の関羽伝(かんうでん)である。三国志の劉備元徳の義兄弟、関羽雲長の生涯を記した公式履歴だ。

 関羽は毒矢が左ひじを貫き骨にまで達したため、華佗(かだ)に手術させた。その手術中血がしたたり落ちる中、「而羽割炙引酒言笑自若。」関羽は肉をほおばり酒を飲み、平然として諸将と談笑しつづけていた。

 名医華佗は麻酔を使って手術をしたとは言われるが、食事ができる程だったのだ。関羽の豪胆さがよくわかる。これを思い出して、例年、健康診断時は採血時に目を背けるのだが、今年はしっかり見つめてみた。

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2009年4月21日 (火)

合浦珠還

 合浦珠還(ごうほしゅかん)とは、一度失った大事な物が再び手に戻ることのたとえだ。合浦は中国の地名である。

 出典は後漢書の循吏(じゅんり)列伝、孟嘗(もうしょう)だ。孟嘗は中国戦国時代の政治家で戦国四君の一人である。仁義をもって国を治めた。

 「嘗到官、革易前弊、求民病利、曾未踰歳、去珠復還。」合浦は昔から良い真珠が採れたが、欲張りな太守が続いたため住民が真珠を採らなくなった。孟嘗が太守になると人心が戻り、再び産出されるようになった。

 孟嘗還珠(もうしょうかんしゅ)とも言う。孟嘗は真珠貝がまた還(かえ)ると読む。

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2009年4月20日 (月)

慈烏反哺

 慈烏反哺(じうはんぽ)とは、親孝行の例えだ。慈烏はカラスのことで、カラスは雛のとき親が口移しで餌を与えてくれた恩を忘れず、成長すると親に餌を与えてその恩を返すということから。

 出典は孝思賦(こうしふ)である。孝思賦は中国南北朝時代の梁の初代皇帝、蕭衍(しょうえん)が著したものだ。

 梁武帝は、南朝の皇帝のなかで最も長い四八年の在位で、安定した治世だったことで知られる。残虐や無能な皇帝が多い南朝のなかで、ひときわ名君としての誉れが高い。

 文武両道なだけではなく、仏教への信仰心が厚く戒律に従った生活を送り菜食主義だったため「皇帝菩薩」と称された。また、国家試験に合格すれば身分に関係なく高級官吏に採用する制度も作った。

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2009年4月19日 (日)

随処為主

 随処為主(ずいしょいしゅ)とは、「随処に主と為る」と読む。常に主体性を持つことである。

 出典は臨済録(りんざいろく)だ。臨済録は臨濟慧照禅師語録の略で、中国唐代の禅僧、臨済義玄(りんざいぎげん)の語録である。

 随処為主、立処皆真。随所に主と為れば、立処(りっしょ)皆(みな)真なり。どんなところでも自分が主人公となって本分を尽くでば、その人の居るところ何処でも尽十方界の真実そのものである。

 臨済義玄は臨済宗の開祖だ。臨済宗の教えの真髄は、自分の中に仏があることに気づくこととされている。

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2009年4月18日 (土)

噬指棄薪

 噬指棄薪(ぜいしきしん)とは、「指を噬(か)みて薪(たきぎ)を棄(す)つ」と読む。母と子の気持ちが通じ合うことだ。

 出典は白孔六帖(はっこうろくじょう)である。中国唐代に白居易が編纂した白氏六帖と、宋代に晁仲衍(ちょうちゅうえん)が編纂した孔氏六帖が合本されて白孔六帖と称されている。

 中国後漢の蔡順(さいじゅん)が薪を取りに行っている間に急用の客が来た。母親は連絡に困り自分の指を噛むと、蔡順は胸騒ぎを覚え薪を捨てて帰って来た。

 これよりも遥か昔、孔子の弟子の曽参(そうしん)にも似た故事がある。やはり、薪を取りに行っているとき急に心痛がしたので帰って母親に聞いてみると、急な来客があったので指を噛んで知らせたと言ったそうだ。

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2009年4月17日 (金)

造反有理

 造反有理(ぞうはんゆうり)とは、体制に逆らうには道理があるということだ。造反は謀叛(むほん)のことで、体制の内部でそのあり方を批判し、反体制行動を起こすことである。

 出典は中国の文化大革命で紅衛兵が連呼したスローガンだ。これは毛沢東が革命戦争中に用いた言葉とされている。

 造反有理と共に用いられたものが「革命無罪」である。紅衛兵達が「造反有理(ザオファンヨウリー)!革命無罪(グーミンウーズイ)!」と天安門広場で連呼していたのだ。

 毛沢東は大の読書好きで、中南海の邸宅には約70万冊もの本が収集されている。特に三国志を愛読していたと言われている。曹操や劉備に思いを馳せながら、政治活動を行っていたのだろうか。

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2009年4月16日 (木)

男耕女織

 男耕女織(だんこうじょしょく)とは、男は田畑を耕し、女は機を織るということだ。男女の天から与えられた職分をいう。

 出典は桃源行(とうげんこう)である。桃源行は中国元代の最高の詩人と称される薩都剌(さつとら)が桃源郷を詠ったものだ。

 男耕女織は生業(せいぎょう)と作(な)し、版籍(はんせき)は是れ秦(しん)の家民とならず。桃源郷では男耕女織で暮らし、秦から独立していた。

 現代は文字通りの男耕女織とは言えないだろう。しかし、男女それぞれに適した役割はあるはずである。

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2009年4月15日 (水)

電光影裏

 電光影裏(でんこうえいり)とは、人生は束の間であるが人生を悟った者は永久に滅びることがなく存在するというたとえ。「電光影裏春風を斬る」の略だ。

 出典は臨剣の頌である。臨剣の頌は、中国宋の僧、祖元(そげん)が、元(げん)の兵士に襲われたときに唱えた喝である。

 乾坤無卓孤筑地 「けんこんこきょうを卓(た)つるに他なし」
 只喜人空法亦空 「喜び得たり人空法もまた空なることを」
 珍重大元三尺剣 「珍重す、大元三尺の剣」
 電光影裏折春風 「電光影裏春風を斬る」

 私にその剣を振るったとしても、稲妻のごとき瞬間にただ春風を斬るようなものだということである。これを聞いた兵士は一礼をして立ち去った。祖元はその後、弘安2年(1279年)に無学祖元と名乗って来日し、鎌倉武士に禅の精神を伝えた。

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2009年4月14日 (火)

読書三余

 読書三余(どくしょさんよ)とは、読書に適した余りがみっつあるということである。すなわち、一年の余りの冬、一日の余りの夜、時の余りの雨降りをいう。

 出典は魏書の王朗伝(おうろうでん)だ。三国志の一つ、魏について書かれた魏書は三十巻におよび、王朗伝はその第十三巻である。

 魏の董遇(とうぐう)が読書する暇がないとい者に、三余に読めと諭した。それゆえ、董遇三余ともいう。

 読書三余には前段があって、まず、董遇に教えを請う者がいた。董遇は教える代わりに「読書百遍にして義自ずから見わる」と言った。続いてそんなに読書をする暇がないと言って来たのでこう答えたそうだ。

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2009年4月13日 (月)

幕天席地

 幕天席地(ばくてんせきち)とは、「天を幕(まく)とし地を席とす」と読む。天を屋根の代わりの幕とし、大地を座席のむしろにするということで、気持ちが大きいことのたとえだ。

 出典は酒徳頌(しゅとくしょう)である。酒徳頌は中国三国時代、竹林の七賢の一人、劉伶(りゅうれい)の著作だ。

 劉伶は無類の酒好きで、日に一斗五升(約27リットル)も飲んでいた。酒樽を抱えて手押し車に乗り、スコップを持った下男を連れ、自分が死んだら酒樽と一緒にそこに埋めろと言っていた。

 酒徳頌は、酒の徳をほめ称えるという意味である。妻が度を超した酒量に辞めてくれと頼むと、祭壇で神に願うからと御神酒を用意させ、「天はこの世に劉伶を生み、大酒によって名を成さしめた。一たび飲めば一斗五升を飲み干して二日酔いを覚ます。妻の言うことなどいちいち聞いてられない」と誓って酒を飲んだそうだ。飲むなら、とことん飲もうか。

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2009年4月12日 (日)

物換星移

 物換星移(ぶっかんせいい)とは、世の中が移り変わることである。「物(もの)換わり星(ほし)移る」と読む。

 出典は滕王閣詩(とうおうかくのし)だ。滕王閣詩は中国初唐の四傑の一人と謳われた王勃(おうぼつ)が詠んだ詩である。

 王勃が父を尋ねて交趾(こうち:今のベトナム)に赴く途中、修復した滕王閣上での招宴で詠んだ詩だ。詩の最後が「物換星移幾度秋、閣中帝子今何在、檻外長江空自流。」であった。「物換わり星移りて幾度の秋ぞ、閣中の帝子今何にか在る、檻外の長江空しく自ら流る。」

 王勃はこの後、出向した先で遭難した。676年、享年二十六歳だった。あれからどれくらい物換星移したことだろう。

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2009年4月11日 (土)

鞭声粛粛

 鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)は聞いたことがあるが、川中島の戦いのこととしか知らなかったので調べてみた。意味は、相手に気づかれないよう静かに馬に鞭むち打つことだ。

 出典は題不識庵撃機山図(不識庵の機山を撃つ図に題す)である。これは以前にも紹介した江戸後期の陽明学者、頼山陽(らいさんよう)が詠んだ詩だ。

 鞭声粛粛夜過河、暁見千兵擁大牙、遺恨十年磨一剣、流星光底逸長蛇。鞭声粛粛夜(よる)河(かわ)を過(わた)る、暁に見る千兵の大牙を擁するを、遺恨十年一剣を磨き、流星光底長蛇を逸す。

 不識庵(ふしきあん)は上杉謙信、機山(きざん)は武田信玄を意味する。謙信は夜半に鞭声粛粛と千曲川を渡った。武田軍は暁の中、数千の兵が大将の旗を擁護し攻めてくるのを発見した。謙信は磨き抜いた剣をひらめかせたが、寸でのところで打ちもらしてしまった。謙信さぞかし無念だったことだろう。

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2009年4月10日 (金)

煩悩菩提

 煩悩菩提(ぼんのうぼだい)とは、悟りの障害になる煩悩がそのまま悟りになるきっかけになることだ。煩悩は欲情の心の働きであり、菩提は悟りの境地のことである。

 出典は六祖壇経(ろくそだんきょう)だ。六祖壇経は中国禅宗の第六祖、慧能の説法集で、禅宗における根本教典のひとつである。

 経典では、法性(ほっしょう)を離れて外に諸法あることなきより、是の故に如く説く、煩悩即菩提なりと、と説かれている。大乗仏教では、人間から煩悩を取り去ることは不可能であり、煩悩があるからこそ悟りを求めることができると考えられている。

 煩悩と菩提は分けようとしても分けることができず、これを而二不二(ににふに:二つであって二つでない)という。煩悩は否定されるものではなく、肯定した上に更なる高みを目指すのだ。

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2009年4月 9日 (木)

握髪吐哺

 握髪吐哺(あくはつとほ)とは、「髪を握り哺を吐く」と読む。賢者をを求める気持ちが強いことだ。

 出典は韓詩外伝(かんしがいでん)である。韓詩外伝とは、詩経の解説書で、中国前漢の韓嬰(かんえい)が著した。

 周の政治家、周公旦は、客が来ると入浴中なら洗髪中でも髪を握ったままで、食事中なら口に入れた食物を吐き出し、すぐに客を出迎えた。吐哺握髪ともいい、略して「吐握」ともいう。

 周公旦は3000年も前の人物である。礼学の基礎も作ったとされる。周公旦から500年経って孔子が現れた。同じ魯の出身だった孔子は、周公旦を理想の聖人と崇めた。握髪吐哺は聖人のなせるわざだろうか。いや、これはわれわれ凡人こそがやらないといけないことだ。

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2009年4月 8日 (水)

夷険一節

 夷険一節(いけんいっせつ)とは、平和で順調なときも乱世で逆境なときでも節操を変えないことである。夷険は土地の平らな所と険しい所の意味で、太平と乱世を表している。

 出典は相州昼錦堂記(しょうしゅうちゅうきんどうき)だ。相州昼錦堂記はこの四字熟語シリーズに何回か登場した中国北宋の政治家、詩人、文学者、歴史学者の欧陽修(おうようしゅう)が著したものだ。

 相州昼錦堂記には、「故能出入将相、勤労王家、而夷険一節。」と記されている。良い司令官とは、平和でも乱世でも節操を変えないと。

 世の中が騒がしくなって来ても、国の指導者や執行部は冷静に戦略的に対応してもらいたいと思う。庶民には急な出来事に見えても、要人には前からそうなることがわかっていたはずだ。

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2009年4月 7日 (火)

羽化登仙

 羽化登仙(うかとうせん)とは、酔って気持ちよくなり天にも昇る心地になることだ。羽化は羽が生え空を自由に飛ぶということで、登仙は天に昇って仙人になるという意味である。

 出典は前赤壁賦(ぜんせきへきのふ)である。前赤壁賦は中国北宋代の書家、蘇軾(そしょく)の有名な作品だ。蘇軾は政治家でもあり詩人でもあった。

 蘇軾は赤壁について二編あるので、区別するため前赤壁賦、後赤壁賦と言われている。しかし彼が詠んだ赤壁は三国時代の実際の古戦場ではなかった。そのため赤壁賦を詠んだ所は文赤壁、実際の戦場は武赤壁と呼んでいる。

 蘇軾は長江に船を浮かべ、赤壁とおぼしき辺で客人と杯をかわし羽化登仙と詠った。現代日本のわれわれは、隣国の人工衛星の発射成功とか失敗とかで羽化登仙となろうか。

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2009年4月 6日 (月)

栄華秀英

 栄華秀英(えいかしゅうえい)とは、草木の花の総称である。栄は草の花、華は木の花、秀は花が咲かないで実を結ぶもの、英は花が咲いて実を結ばないものを表す。

 出典は爾雅(じが)だ。爾雅は中国最古の類語辞典で、戦国時代に編纂されたらしい。

 爾雅は、釈詁、釈言、釈訓、釈親、釈宮、釈器、釈楽、釈天、釈地、釈丘、釈山、釈水、釈草、釈木、釈蟲、釈魚、釈鳥、釈獣、釈畜の全十九編で構成されている。栄華秀英は釈草に解説されている。

 栄華秀英によれば、桜の花は「華」となる。花見のときは、華を見ていると思って楽しもう。

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2009年4月 5日 (日)

往古来今

 往古来今(おうこらいこん)とは、綿々と続く時間の流れを表す。また、昔から今までの意味でも用いる。

 出典は鹖冠子(かつかんし)である。鹖冠子は黄老道家による著作ということで、著者不詳だが中国漢代の書と思われる。

 同じく漢代の思想書、淮南子には往古来今謂之宙、四方上下謂之宇。(往古来今これを宙といい、四方上下これを宇という)とある。往古来今は宇宙の現在、過去、未来の時間軸を指すのだ。

 往古は過ぎ去った過去、来今は今から後の未来である。現在は往古と来今の狭間の刹那だが、われわれは今というその瞬間だけを世界中で共有しているのだ。

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2009年4月 4日 (土)

気韻生動

 気韻生動(きいんせいどう)とは、気と韻律、動勢と生命感ある絵画のことである。気韻は書画の芸術作品にある気高い趣を表し、生動は生き生きとしている様を示す。

 出典は輟耕録(てっこうろく)だ。輟耕録は中国元末期の文学者、陶宗儀(とうそうぎ)が書いた。

 気韻生動は、中国六朝時代、南斉の人物画の名手、謝赫(しゃかく)が、画の六法の第一に挙げたのに始まる。あとの五法は、随類賦彩、骨法用筆、応物象形、経営位置、伝移模写だ。

 六法の締めくくりが、画龍点睛(がりょうてんせい)である。竜(りょう)を画(えが)いて睛(ひとみ)を点ず、と読む。

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2009年4月 3日 (金)

敬天愛人

 敬天愛人(けいてんあいじん)は、天を敬(うやまい)人を愛す、と読む。西郷隆盛が学問の目的を述べた語である。

 出典は南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)である。南洲翁遺訓は、旧庄内藩の関係者が西郷隆盛から聞いた話をまとめた遺訓集だ。

 道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。

 西郷は天命を自覚していた。そして人民を愛していた。敬天愛人は学問の目的だけではなく、彼の思想そのものだったはずだ。

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2009年4月 2日 (木)

枯樹生華

 枯樹生華(こじゅせいか)は、枯樹、華を生ず、と読む。枯れ木に花が咲くという意味から、老人が生気を取り戻すたとえとなった。

 出典は続博物志だ。続博物志は、中国晋代の民族風俗を記した博物志にならって、中国宋代に李石が著したものである。

 元々の意味は、この上ない真心が通じることをたとえたものだった。今では困難の最中に活路を得るたとえにもなっている。 

 年老えば筋肉が衰え頭もぼけてしまうのだが、実は老人でも体を鍛え勉強すれば筋肉細胞は太り脳内に新しい神経細胞が発生するらしい。老化は気持ちや習慣がなせる技なのかも知れない。

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2009年4月 1日 (水)

作文三上

 作文三上(さくぶんさんじょう)とは、文章を考えるのに適した三つの場所のことだ。それは、馬上(馬に乗っているとき)、枕(ちん)上(寝床に入っているとき)、厠(し)上(便所にいるとき)をいう。

 出典は帰田録(きでんろく)である。帰田録は中国北宋の文人政治家、欧陽修(おうようしゅう)が編纂したものだ。

 余平生所作文章多在三上、乃馬上、枕上、厠上。盖惟此尤可属思尓。私はふだん文章を作るところは、馬上、枕上、厠上の三上でするのが多い。特にものを考えるときは、ほとんどここである。

 現代では馬上の代わりに電車の中ということで車上だろうか。リズミカルな振動に揺られながら流れ行く景色を見ていると、インスピレーションが沸いてくる。

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