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2009年5月31日 (日)

26年

 西暦26年、相変わらず根暗なティベリウスは、68歳にしてとうとうカプリ島に引き籠もってしまいました。ローマの権力争いに明け暮れる喧噪に嫌気がさしたのでしょう。ローマの政治はどうしたかというと、絶対的に信頼していたセイヤヌスに全権を委任したのでした。

 ルキウス・アエリウス・セイヤヌスは親衛隊長官でありました。この日のためにやってきた苦労が実ったのです。さぞかし嬉しかったことでしょう。今日のためにやって来た悪事の数々を思い出したでしょうか。騎士の息子として生まれたセイヤヌスは、親衛隊長官とまで出世したのですから有能だったのでしょう。長官となってからも兵士達を掌握し続け、ティベリウスの信頼を得ることかできました。

 孤独なティベリウスの信頼を得たとしても、周りからは見え見えの取り入りぶりだったのです。ティベリウスの息子ドルススがセイヤヌスの野望に気付かないわけはありません。そしてまた、セイヤヌスもドルススを邪魔に思っていました。何ということか、セイヤヌスはドルススの妻リウィッラを口説き、夫に毎日少しづつ毒を盛らせ病死に見せかけて殺させたのであります。もちろん、リウィアの主治医に手を回していました。西暦23年のことでした。

 また、ティベリウスがカンパニアへ視察へ出かけたとき、セイヤヌス自ら親衛隊長官として同行しました。一行がタラキナに近い洞窟の中に作られた食堂スペルンカで食事をとっていたところ、落盤事故が発生したのであります。そのときセイヤヌスはティベリウスの体の上に覆い被さって命がけで皇帝をお守りしたのです。ティベリウスのセイヤヌスに対する信頼は絶対的なものとなりました。セイヤヌスがいれば安心してカプリ島で隠居できると思ったことでしょう。このままセイヤヌスの悪の世は栄えるのでしょうか。

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2009年5月30日 (土)

25年

 西暦25年、王莽を倒した更始の世も安定せず、更始帝は赤眉軍に殺害されてしまいます。そこで登場した漢王朝復興の本命、光武帝が元号を建武(けんぶ)として、洛陽に後漢王朝を築きました。ところが世は乱世であります。長安を攻め落として更始帝を破滅させた赤眉軍が劉盆子(りゅうぼんし)を担ぎ上げ、元号を建世(けんせい)と宣言しました。また、公孫述(こうそんじゅつ)が成都に龍興(りゅうこう)という元号を建てて国家を築きました。三国志の時代から300年前にも三国志の時代があったのです。ただし、こちらは隗囂が漢復を建てていたので、もっとややこしいのですが。

 更始帝は即位後すっかり贅沢な宮廷生活に染まってしまい、政治を放棄していたのでした。そして制御の効かなくなった赤眉軍が擁立した劉盆子に皇帝を譲ってしまいました。これだけなら更始帝が殺されることはなかったのですが、更始帝を裏切ったことのあった緑林軍の武将、張卬(ちょうごう)は更始帝からの報復を恐れて、赤眉軍の武将、謝禄(しゃろく)に他の武将に更始帝を奪われると謝禄の身が危うくなると口車の載せ、謝禄に更始帝を殺害させてしまったのであります。しかし謝禄は更始帝の仇として、劉盆子の兄、劉恭(りゅうきょう)に討たれてしまったのであります。

 皇帝を譲られた劉盆子は元々漢の皇族であります。西暦18年に赤眉軍に捕らわれ、牛の世話をする牛吏となりました。ところが、赤眉軍が快進撃を続けている最中、巫女が劉氏宗族を天子に立てよと言い始めたのです。そこで、当時15歳の劉盆子が皇帝になることになったのであります。

 公孫述(こうそんじゅつ)は優秀な人物でありました。若くして天水郡清水県の長に任じられたのですが、父が心配して部下を公孫述の元へ送ったのですが、その部下は教えることはなかったと帰って来るほどだったそうです。5県をも任せても盗賊が起きない政治を行い、蜀(成都)の太守となったのです。中央の権力が失墜すれば、地方を平和に治めていた公孫述が地方王朝を唱えるのも仕方なかったのでありましょう。さて、この混乱した世を光武帝はどの様にまとめて行くのでしょうか。

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2009年5月29日 (金)

24年

 西暦24年、高句麗、百済(くだら)、新羅(しらぎ)と三国で構成された朝鮮半島の新羅で、第2代王、南解次次雄が崩御し、長男の儒理尼師今(じゅりにしきん)が第3代王に即位しました。

 南解次次雄が亡くなったとき、儒理は妹婿の昔脱解(せきだっかい)に王位を譲るつもりだったそうです。ところが、昔脱解は「神器大宝は凡庸なる人物の堪える所に非ず。吾は聖や賢人には歯が多いと聞きました。餅で試しましょう。」と言ったのです。そこで試してみると、儒理の方が歯が多かったので王に即位したのでありました。

 尼師今とは方言で、歯並びのことを表します。南解次次雄が亡くなるとき、儒理と脱解に死後は朴氏と昔氏で年長者が王になれと遺言しました。儒理の姓は朴であります。後に金氏が加わって朴、昔、金の三姓の間で年長者と歯の長い者が交互に王位を継ぐようになったので、歯を表す「尼師今」が王の称号に用いられたと言われています。

 日本の政治家は年配者が多いので、歯が多い方がまだ若い、あるいは元気と言えないこともないでしょう。ということで総裁選も餅を噛んで、歯形の数の多い者が総理大臣になっても良いかも知れません。誰がなっても官僚が政策を立てるのでしょうから。

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2009年5月28日 (木)

23年

 西暦23年9月、遂に更始軍が長安城を攻め落としました。王莽もその混乱の中で杜呉(とご)という商人に殺害されました。王莽の野望は68歳で潰えたのであります。

 王莽の命令で長安を出ていた配下の隗囂(かいごう)は、王莽が敗北したと聞いて独自の軍を立てようとした叔父や兄を「兵は凶事」としていさめました。しかし叔父の隗崔(かいさい)らは聞き入れず、王莽の地方軍を討ち取りました。そして、隗囂を説き伏せて祭り上げたのです。

 頭領となった隗囂は元号を漢復と称し、漢室復興を各郡国に発したのであります。ここで、片や更始帝が建てた更始と、二重に元号が発生した後漢時代への前奏となりました。隗囂はその後、10万の大軍で周辺地域を制覇し、隴西、武都、金城、武威、張掖、酒泉、敦煌等を支配下としました。

 漢復の時代は、 更始帝から光武帝の後漢時代までの10年間ほど続きます。隗囂が西暦33年に亡くなり、その子、隗純(かいじゅん)が後漢に降伏するまでの10年でありました。

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2009年5月27日 (水)

22年

 西暦22年、いよいよ中国、新の王莽の世が危なくなって来ました。赤眉軍の頭領、樊崇(はんすう)率いる農民軍団と、王莽配下の廉丹(れんたん)、王匡(おうきょう)軍が激突したのであります。

 樊崇は、味方と王莽軍を区別するため、われら農民軍団兵士の眉を赤く染めました。これで赤眉軍と呼ばれるようになったのであります。赤眉軍は廉丹、王匡軍を撃破し、廉丹を討ち取りました。王莽は廉丹と王匡に10万もの兵を与えたのに負けてしまったのです。なぜなら、既にこのとき赤眉軍は10万人を超えていたからです。

 一方、もうひとつの反王莽勢力が台頭していました。偶然にも王莽の部下、王匡と同名なのですが、もう一人の王匡が起こした緑林軍(りょくりんぐん)であります。荊州で民衆から推されて頭領になった王匡は、城郭から去って来た離郷聚を襲った後、緑林山に籠もりました。そこへ浪人たちが加わり勢力が膨らんで行き、討伐に来た2万の王莽軍に勝ってしまいます。これをきっかけに緑林軍は5万もの勢力に育ったのです。

 更に、緑林軍から派生した新市軍に平林県の武装勢力、平林軍や、舂陵県の勢力、舂陵軍が合流し巨大な連合軍を形成して行きました。連合軍は劉玄(りゅうげん)を更始帝(こうしてい)と祭り上げ、新を打倒して行くのであります。

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2009年5月26日 (火)

21年

 西暦21年、高句麗の大武神王が、北に位置する扶余(ふよ)に攻め入り帯素王の首を取りました。扶余は非常に日本に関係ある国です。今夜は扶余について調べてみましょう。

 1948年、東京大学東洋文化研究所の江上波夫教授は、騎馬民族征服王朝説を発表しました。これは、中国、満州の松花江流域の平原にいた扶余系の騎馬民族が南下して、対馬・壱岐・筑紫を経て日本列島に入り倭韓連合王国を建てたとする説なのであります。その後、5世紀初めころになって、大阪平野に進出し、大和にいた豪族と合わさって大和朝廷をつくったと続きます。この説が正しいかどうかはわからないのですが、皇室の先祖は扶余族ではないかというものなのです。

 また、扶余の言葉が日本語に近かったとも言われているのであります。高句麗語は高句麗の滅亡と共に使われなくなったのですが、扶余と同系統の言葉とわかっており、扶余語族と呼ばれています。日本語と高句麗語がどの程度似ているかわかっているものを列挙するとこうなります。3は日本語で「ミ」ですが、高句麗語は密「mir」、5は「イツ」と于次「ütsi」、7は「ナナ」と難隠「nanin」、10は「トウ」と徳「tək」となります。高句麗語の記録は三国志等に残されているので、漢字の表記であります。

 日本語の起源は他にも諸説あるのでありますが、高句麗語と上代日本語が似ているという点が面白く思われます。奈良時代の日本語は、上代日本語とあずまことばと呼ばれる関東の言葉の2種類があったとされています。母は上代日本語では「papa」と発音し、やがて「fafa」となり現在の「ハハ」となるのですが、高句麗語では也派「yapa」でした。

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2009年5月25日 (月)

20年

 西暦20年、ローマ帝国でマルクス・ウァレリウス・メッサッラ・バルバトゥスがコンスルを務め、後に七ヶ月間だけ皇帝となるセルヴィウス・セルピキウス・ガルバがプラエトルの要職に就きました。帝政ローマ時代の政治はどうなっていたのでしょうか。今夜は2000年前の政治の仕組みを調べてみましょう。

 紀元前509年、王政を倒した共和制ローマが始まります。王政最後の第7代王ルキウ・タルクィニウス・スペルブスは傲慢王と呼ばれ、息子セクトゥスがルキウス・タルキニウス・コッラティヌスの妻ルクレティアを暴行してしまったのであります。ルクレティアは夫と友人ルキウス・ユニウス・ブルートゥスにこの事件を告白し、夫等が復讐を誓うのを見届けるや短剣で自害してしまいました。ブルートゥスは市民に王追放を呼びかける演説をし、市民と一体となって王一族をローマから追い出してしまいました。小さなローマ村から都市国家へ、そして広大な巨大国家へと拡大した理由の一つに、戦争で勝った相手をローマに連れて来て市民とし味方にするという戦略がありました。これによりローマは人口が増え大きくなっていったのです。そこで必要なのは民主的な考え方です。王政であっても、王は選挙で選ぶという考えたであります。それゆえ王は世襲制ではなく、ギリシャのポリスで生まれた民会を範とした選挙で自由市民により選ばれていたのです。しかし、傲慢王の出現により、もう王政はこりごりだという訳だったのです。

 妻を失ったコッラティヌスと市民を扇動した友人ブルートゥスは共和制ローマ最初のコンスルとなりました。コンスルは執政官と訳され、共和制ローマにおける最高責任者となります。定員は2名で任期は1年と、独裁を防ぐ工夫がなされていました。その次の要職が法務官のプラエトルです。コンスルとプラエトルはインペリウムと呼ばれた命令権を持っていました。後は、建築の責任者アエディリス、財務のクァエストル、警察機能のトリブヌス・プレビスがあり、これら5つの要職はクルスス・ホノルムという当時の出世街道でありました。これらの役職に加えて重要なのが、独裁官ディクタトルであります。ディクタトルは国家が非常事態にあるときだけ、あらゆる領域に及ぶ権限を一人だけに与えるという最強の要職でした。これを終身独裁官として強大な権力を持ったのがカエサルで、事実上の帝王となったのです。カエサルの暗殺後、甥アウグストゥスが帝王となり共和制が終わり帝政が始まったのです。

 帝王となったアウグストゥスは独裁官を断ってプリンケプスとなりました。独裁官となったカエサルが暗殺されたからであります。プリンケプスというのは、元老院議員の最も権威のある第一人者に与えられる称号で、会議の最初と最後に発言する権利がありました。自らを元老院にプリンケプスと指名させることが、独裁官としての権利は欲しいが印象を和らげたいと思ったアウグストゥスの選んだ回答だったのです。帝政とは、血縁のある者が最高権限を相続していくことなのですが、帝政ローマではこのプリンケプスの相続となります。プリンケプスは元首とも訳され、皇帝による帝政というよりは、プリンケプスによる統治としての元首政という意味でプリンキパトゥスとも呼ばれています。この体制の元では、共和制時代の役職は踏襲されることになり、プリンケプスの元、コンスルやプラエトルの要職が機能していました。

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2009年5月24日 (日)

19年

 西暦19年、パルティアン人のゴンドファルネスがインド・パルティア王国を建国しました。現在のアフガニスタン、パキスタン、北インドに相当します。今宵はローマと中国に挟まれたインドの歴史の一部を調べたいと思います。

 ホモ・サピエンスがアフリカに出現したのが約10万年前となります。獲物を追って移動して行ったのでしょう。われわれ人類自体は出現してから進化はしていないので、歩く速度は時速4㎞であります。1日たった1時間歩くだけで、1万日で4万㎞移動できるのです。4万㎞は地球一周の長さとなります。数万年前には地球上のあらゆる所へ人類は散らばっていたことでしょう。中国の黄河沿いからは、1万年前の農耕して栽培されたとみられる米の化石が見つかっています。ローマ文明や中国の歴史の紹介が多いのは、読める文字の記録が多く残っているからであります。解読できていない古代文字文明はまだまだ謎が多いのです。

 そういう意味でインドの歴史は不明なところがまだまだ多いのです。ローマとの抗争でパルティア王国が弱体化すると、パルティアの貴族は勝手に東へ侵入して行きました。そんな貴族の一人、ゴンドファルネスは東方で征服した土地を自分の国とし、パルティアから独立宣言しました。その国をインド・パルティア王国と呼びます。ゴンドファルネスが訪れる前は、インド・スキタイ族や大月氏が占領していました。ゴンドファルネスがこの地で王となったのは、自らをデザインしたコインが出土したことよにります。

 ゴンドファルネスのことはあまりわかっていないのですが、彼はキリスト教の伝説に登場したことで有名になったのであります。聖トマス伝によれば、12人の使徒は各地に伝道することになり、聖トマスがインドへ赴くことになりました。トマスはインドで宣教し、インド王のグンダファルがキリスト教に改宗させたと記録されています。このグンダファル王がゴンドファルネスだとされており、出土したコインで裏付けられました。

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2009年5月23日 (土)

18年

 西暦18年、ユーラシア大陸でローマ帝国の対岸にあたる高句麗で瑠璃明王(るりめいおう)が崩御し、三男の大武神王(たいぶしんおう)が第3代の王位を継承しました。それでは今宵、高句麗の建国の話題を取り上げましょう。

 紀元前37年、朱蒙(チュモン)が高句麗を建国しました。朱蒙の母は河伯(ハベク)の娘でした。河伯は黄河の神であります。河伯は日本に渡り河童となりました。西遊記に登場する沙悟浄も河伯です。その娘、柳花(ユファ)が天帝の子、解慕漱(ヘモス)と出会い結ばれました。河伯はそれを怒り柳花を、扶余(プヨ)の金蛙王(クムワワン)の所へ送ったのです。金蛙王は柳花を屋敷の中に閉じ込めていたのですが、日光が柳花を追いかけて照らして来ました。すると柳花は身ごもり、大きな卵を産んだのでした。気味悪がった金蛙王がその卵を豚小屋に捨てたのですが、豚がおびえて近かづきません。他の所に捨てれば鳥が卵を抱いて守ります。終いに卵を割って壊そうとしても硬くて壊せません。そして数日が経ち割れ、中から朱蒙が生まれました。

 朱蒙とは弓の達人と言う意味であります。朱蒙はその名のとおり弓の達人であったため、金蛙王の7人の王子に妬まれました。朱蒙には烏伊(オイ)、摩利(マリ)、陝父(ヒョッポ)という3人の家臣ができていました。朱蒙は3人の家臣と共に王子達から逃げるための旅に出たのであります。淹淲水(オモス)川まで来たのですが橋がありません。追っ手を恐れた朱蒙は川に向かって河伯の孫で追ってが迫っていると言うと、魚や鼈(すっぽん)が集まって橋となり渡ることができました。すぐ後に追って来た追っ手が渡ろうとすると、魚や鼈は解散し渡ることができなったのです。そして卒本(チョルボン)までやって来た朱蒙一行はそこに城を築き高句麗を建国したのであります。

 朱蒙は40歳で崩御し東明聖王となりました。王位は朱蒙の子、類利(ユリ)が継承します。類利は朱蒙がまだ扶余にいるときできた子であります。妻と子を扶余に残して亡命したため、類利は父親を知らなかったのです。類利が幼少の頃、雀を撃って遊んでいると誤って通行人の瓶を割ってしまいました。父親がいないからこんなことをするのだと罵られたので、帰って母親に父のことを尋ねました。すると母親は、父が亡命して南で建国したこと、逃れるときに生まれる子が男ならばその子に七角形の石の上の松の下に隠したある物を見つけさせ会いに来いと言ったことを告げました。類利は見つけ出したその物(剣の欠片)を持って朱蒙に会いに行きました。そこで朱蒙の持っている剣と合わせたところ、見事に繋がり一本の剣となったのであります。朱蒙は類利を太子としました。なお、2006年に韓国MBCが「朱蒙 -チュモン- Prince of the Legend」というタイトルでテレビドラマ化しました。日本でもBSフジやDVDで鑑賞できます。韓流ファンならご存じでしょうか。

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2009年5月22日 (金)

17年

 西暦17年、詩人オウディウスが追放地トミス(現在ではルーマニアのコンスタンティア)で亡くなりました。西暦8年にアウグストゥスによって追放され、それからというもの切望したローマには帰れなかったのでした。

 紀元前23年、二十歳のオウディウスは役人として働くのですが、書くもの全てが詩になってしまうため試作に専念することにしました。オウディウス初期の作品は恋愛に関するものばかりでありました。「恋の歌」「名婦の手紙」「恋の技法」「恋の治療」というタイトルの作品群が残っています。西暦2年頃から神話を題材とした物語を書く様になり、「変身物語」が代表作となりました。ところが西暦8年、アウグストゥスが初期の作品「恋の技法」を読んだところ、露骨な性表現が多かったので皇帝の怒りを買い、トミスに追放されたのでした。

 「恋の技法」は直訳であり、岩波文庫では「恋愛指南」という意訳のタイトルとなっています。ローマ時代の彼女を作るノウハウ本ということになりましょうか。真面目なアウグストゥスはこの手の本がさぞかし嫌いだったのでしょう。「愛されるためには、愛される人であるように」という様なことが載っている様ですが、ポルノ小説さながらの表現も沢山あります。

 代表作「変身物語」はギリシャ神話、ローマ神話の登場人物が変身して行く15のエピソードを書いたものであります。それではその一つ、ナルキッソスの話を。ナルキッソスは若く美しい少年だったのですが、森の妖精エーコーが彼に恋をしてしまいました。エーコーはゼウスがヘーラーの監視から逃げるのを助けたため、ヘーラーは怒ってエーコーを他人の言葉を繰り返すことしかできない様にしてしまっていました。だからエーコーはナルキッソスの言葉を繰り返すだけだったのです。ナルキッソスは退屈に思いエーコーを見捨てました。エーコーは悲しみのあまり姿を失い声だけが残り木霊となってしまいました。これを見た神ネメシスは、ナルキッソスを自分だけ愛するように罰を与えました。ある日、ナルキッソスが水面を覗くと、ナルキッソスはその中にいた美しい少年に一目惚れしてしまいます。そしてそのまま水の中の少年と離れることができなくなり、やがて飢えて亡くなりました。ナルキッソスが逝った後に水仙の花が咲きました。英語で水仙のことをナルシス(narcissus)と呼ぶのは、この逸話が元になっています。またナルシストの語源にもなりました。

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2009年5月21日 (木)

16年

 西暦16年、カリグラの妹ドルシッラが生まれました。カリグラの異常性の一つに、ドルシッラに対する兄妹を超えた愛情がよく挙げられます。現に、ドルッシラが21歳で病死するとカリグラはたいそう悲しみ、彼女が女神ウェヌスだと宣言しました。ウェヌスは英語読みでヴィーナス(Venus)であります。今宵は愛と美の女神ウェヌスの話題をしましょう。

 ウェヌスは元々、菜園を司る神だったのですが、ギリシャ神話の女神アフロディテと同一視される様になり、愛と美の女神となったのです。夫はウルカヌスですが、英語読みの方がわかり易いでしょう。なぜなら英語ではヴァルカン(Vulcan)と読むからです。ウルカヌスもギリシャ神話の炎と鍛冶の神ヘパイストスと同一視されました。

 ウェヌスはマルス(英語読みだとマーズ)、メルクリウス(英語読みでマーキュリー)と浮き名を流します。赤ん坊のアドニスに恋をし、成長したアドニスにマルスが嫉妬して彼を殺してしまいます。その時アドニスが流した血から真っ赤な花が咲きました。それがアネモネであります。また、アンキセスとも一夜を共にし子供まで身籠もりました。その子アエネアスはユリウス氏族へと発展し、やがてカエサルがローマを統一したのでありました。そのため、カエサルはウェヌスを先祖の神として祀りました。

 ドルシッラの名前はユリアというのですが、実は、ユリウス氏族の娘の名前は全員ユリアなのです。だから、大ユリア、小ユリアというように区別を付けます。ちなみに有名なクレオパトラはクレオパトラ7世が正式名で、クレオパトラの母親はクレオパトラ5世なのでした。今回歴史の勉強を始めてクレオパトラを知り、もっと早くに勉強しておけば良かったと後悔しました。クレオパトラが毒蛇に自らを噛ませて絶命したのが紀元前30年なので、これから歴史シリーズに登場するかどうかはわかりません。今まで誤解していたことといえば、クレオパトラはギリシャ人だったので、色は白く髪はブラウンだったのでした。エジプト人の褐色の肌と黒髪をイメージしてはいけないのです。

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2009年5月20日 (水)

15年

 西暦15年、ローマ帝国によりエモナの町が建設されました。エモナは現在、スロベニアの首都リュブリャナとなっています。エモナはギリシャ神話にも登場し、英雄イアーソンによって創立されたといわれています。それでは今宵ひとときはギリシャ神話の住人イアーソンを調べてみましょう。イアーソンは英語読みをするとジェイソン(Jason)であります。

 イアーソンはテッサリアのイオールコス王の子として生まれたのでしたが、王が崩御したときイアーソンはまだ幼かったため叔父のポセイドンの子ペリアスが王位を継承しました。イアーソンの安全を確保するため、母親は彼をケンタウロスのケイロンに預けました。やがて成人したイアーソンは王位の返還を求めにペリアースと接見したのですが、彼はその若者がイアーソンだとはわからなかったのです。しかし、その若者が片方しかサンダルを履いていないことに愕然としました。なぜなら、ペリアースは片方しかサンダルを履いていない者に王位を奪われると神託を受けていたからであります。そこで彼はイアーソンに王位継承の代わりに無理難題を押しつけました。それは、黒海の果てコルキスにあるという黄金の羊の毛皮を持って来いというものだったのです。ここにアルゴナウタイの冒険が始まるのです。

 イアーソンは巨大なアルゴ船を建造し、ヘラクレスらギリシャ中の勇士50人を集めました。このアルゴ号の一行をアルゴナウタイというのです。アルゴナウタイは女神アテナの祝福を受けて出発し、各地で数々の冒険物語を生み出しました。1963年には「アルゴ探検隊の大冒険」というイギリスとアメリカの特撮映画にもなりました。われわれ世代は小学校で上映会があったのではないでしょうか。そのときに立ち寄ったのがエモナであります。そこの沼地でイアーソンはズメイ(竜)を倒したので、ズメイはリュブリャナのシンボルとなりました。

 やっとコルキスに到着したのでありましたが、コルキス王アイエテスはイアーソンに毛皮を渡すつもりはありませんでした。逆に罠にはめようと画策するのですが、アイエテスの娘メデイアがイアーソンに一目惚れしてしまいます。メデイアは結婚を条件にイアーソンを助け、念願の毛皮を手に入れることができました。毛皮を持ち帰ったのですがペリアースは王位を譲りませんでした。メデイアは魔法でペリアースを殺してしまうのですが、彼女の魔法を国民が恐れイアーソンは王位を継ぐどころか国にいられなくなりコリントスに逃げました。イアーソンを気に入ったコリントス王は、娘との結婚話を持ちかけたのでした。メデイアとの間に子供までできていたのですが彼女が怖くなっていたイアーソンはこの話を受けます。しかしメデイアが許す訳はありません。メデイアはコリントス王と娘を焼き殺し、イアーソンとの子供まで殺して去って行きました。イアーソンはその後、過去の栄光に取り憑かれた狂人として放浪し、ある海岸でアルゴ船の残骸を発見しました。ぼんやりとその傍でたたずんでいると、急にアルゴ船は崩れイアーソンは下敷きになって生涯を終えたのでありました。

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2009年5月19日 (火)

14年

 西暦14年8月、自分の名前に変えた月、「私は役を演じきった。私を喝采で送ってくれ。」と言い残して初代ローマ皇帝アウグストゥスはナポリ郊外のノラで75歳の生涯を閉じました。

 カエサルの姪アティアの子として生まれたアウグストゥスは、18歳で突如有名人になったのでありました。なぜならそのとき暗殺されたカエサルが後継者に指名していたからです。反カエサル派のプルトゥスをフィリッピの戦いで破りローマの西側の統治者となり、姉オクタウィアの夫アントニウスとローマの覇権を争いました。ローマの東側を支配していたアントニウスはエジプトへ渡りクレオパトラと結婚してエジプトと同盟を結びます。そしてアントニウス、クレオパトラ同盟軍対アウグストゥスがアクティウムの海戦で決戦を行います。この戦いではクレオパトラが逃げだしアントニウスは敗北しアウグストゥスは皇帝となりました。

 病気がちだったアウグストゥスは後継者にも恵まれなかったので、未亡人になっていた一人娘のユリアと無二の親友で片腕的存在のアグリッパを結婚させました。ユリアとアグリッパの子供達が成人するまで、頑健なアグリッパに自分が亡くなったときはローマを託そうと帝位継承権を与えた事もあったのですが、紀元前12年、頼みのアグリッパが先に亡くなってしまいました。そこで今度はユリアを強制的にティベリウスと再婚させました。ティベリウスはアウグストゥスの妻リウィアの連れ子だったのです。そのとき、ティベリウスにはウィプサニアという愛する妻がいたのですが、ユリアとの結婚を命ぜられ泣く泣く別れたのでありました。当初はうまく行っていたのですが、やがてユリアに我慢できずティベリウスはロードス島に渡り8年も引きこもってしまいました。

 そしてアウグストゥスが崩御し、ティリベウスはロードス島から呼び出され第2代ローマ皇帝に即位しました。そのときティリベウスは既に54歳でした。ティベリウスは増税することなく国家財政を引き締めようと、戦車競技会等のイベントをどんどん中止して行き、ローマ市民には全く不人気でした。晩年までの10年はカプリ島で隠遁生活を送りながら政治を行うというスタイルで、在位期間の23年間に人気取りの政策は一切行わなかったのでした。西暦37年、77歳で崩御したときローマ市民は歓声をあげたと言われています。ティベリウスが行った堅実な政治が評価されたのは、何と死後1700年以上も経過した18世紀の啓蒙主義でありました。

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2009年5月18日 (月)

13年

 西暦13に中国は新で王政君(おうせいくん)が崩御しました。きっと失意の内に王莽を呪いながら亡くなったのでしょう。今夜は自分の権力欲を満たすことができた漢に恩義すら感じていたのですが、そのせいで甥が暴走してしまい漢を失ってしまった彼女の話題であります。

 第9代漢皇、宣帝(せんてい)の息子で第10代の漢皇になる元帝(げんてい)劉奭(りゅうせき)が皇太子の時代、愛妾の司馬慧に先立たれショックで女性を近づけなくなりました。劉奭には子供がいなかったので、危機感を覚えた宣帝は廃嫡したいと周囲に漏らし始めたのです。それを聞いた劉奭の育ての母、許氏はとにかく子供だけは作れと劉奭に迫りました。仕方なく劉奭は適当に選んだ女性を寝所に呼んだのですが、その女性が王政君だったのです。たった一夜の契りで王政君は第11代漢皇となる成帝(せいてい)劉驁(りゅうごう)を身籠もったのでした。宣帝はたいそう喜び、劉驁を自分の手元で育てました。しかし、劉奭と王政君がその後夫婦として暮らすことはなかったのでした。

 紀元前33年、宣帝の後を継いだ元帝もが崩御し、成帝が皇帝に即位しました。そうなると、王政君は皇帝の母親の皇太后として、世間の注目と尊敬を一身に受ける立場となりました。王政君はこの立場を利用して、せっせと兄弟や甥を重要職に就け、王一族にわが世の春を迎えさせました。ところが、紀元前7年に成帝が急逝したのですが、成帝に子供がいなかったので、元帝が愛妾の傅氏に産ませた劉康の子供、哀帝(あいてい)劉欣(りゅうきん)が第12代皇帝となりました。哀帝は男色だったそうで、官人、董賢(とうけん)が皇帝の寵愛を受けていました。即位後に王莽を罷免する等して、王一族の権力は抑制させられました。しかし紀元前1年にまだ25歳にして亡くなってしまいました。子供がいなかったので、亡くなる前に次期皇帝の決定権を与える皇帝璽綬(じじゅ)を愛する董賢に託していました。これを何と王莽が奪ってしまい、王莽が次の皇帝として僅か9歳の平帝(へいてい)劉衎(りゅうかん)を即位させてしまいます。そして王莽の暴走が始まったのでありました。

 王政君は平帝の即位後、皇帝の祖母という立場の太皇太后として、失われつつあった王一族の権力を復活させます。わが一族の権力増強には積極的だったのですが、それもこれも漢があってのこと。王政君は王一族があくまでも漢の中で権力を保つことを祈っていたのでありました。ところが甥っ子の王莽は王政君の後ろ盾を受け、ついには皇帝を夢見る様になったのでした。そして西暦5年に平定を殺害し、孺子嬰を皇太子として、自らは摂皇帝となり西暦8年にはとうとう皇帝となってしまいました。そのとき王莽は、王政君が持っていたい歴代皇帝の印である玉璽(ぎょくじ)の伝国璽(でんこくじ)の引き渡しを要求しました。王政君は王莽を激しく罵しり、泣き崩れながら伝国璽を投げ付け、伝国璽の一部が傷付いたそうです。

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2009年5月17日 (日)

12年

 西暦12年にローマ帝国で第3代帝王となるガイウスが生まれました。ガイウスは幼少の頃に履いていた小さな軍靴を意味するカリグラから、現代でもカリグラ、あるいはカリギュラと呼ばれています。あの暴君カリグラなのです。

 ゲルマニアを征服せし者という意味のゲルマニクスという意味は父の偉業への称号なのですが、その名を冠したゲルマニクスと、皇帝アウグストゥスの孫、大アグリッピナの子としてカリグラは誕生しました。ゲルマニクスは第2代皇帝となるティベリウスの弟の子供であります。カリグラは幼少の頃から、ゲルマニクスのゲルマニアへの軍事行動の同行させられました。そのとき子供用に作った甲冑や軍靴を着せられていたので、面白がった兵士達のマスコット的存在となり、カリグラと呼ばれていたのでありました。

 西暦37年にティベリウスが崩御しカリグラが皇帝の座に着いたとき、民衆から我らの子と熱烈に受け入れられました。老齢となって顔を見せなくなり緊縮財政を狙ってイベントを抑制していた陰気なティベリウスから、軍隊でもマスコットだったカリグラが即位したのですから当然のことだったのでしょう。それに、ティベリウスは初代皇帝アウグストゥスとは血縁がなかったのですが、カリグラはアウグストゥスの曾孫に当たるのです。カリグラ即位の祭典は3ヶ月にも及び、16万匹もの動物が生け贄になったそうです。そしてカリグラが即位した初期の施政に全ての国民は満足していました。全ての軍人に賞与を出し、ティベリウス時代に追放した人々の罪を水に流し、逆に性犯罪者を追放し、税制による逼迫者を保護し、剣闘士のイベントを復活したのでした。

 カリグラは皇帝になって放蕩生活が始まりました。それが原因で大病まで患ってしまいました。その病気が癒えてから彼は残忍な暴君に豹変しましたの。1979年制作のカリギュラという映画がありましたが、内容はほぼ史実に基づくものではないかと思われます。4年の在位の間の最初の2年間のうちに、ティベリウスが23年間かけて蓄えた財政を全て使い切ってしまうほど贅沢の限りを尽くしてしまいました。罪のない人も沢山処刑しました。ローマの同盟国マウレタニア(現在のモロッコ)のプトレマエオス王をローマに招待し、そこで処刑してマウレタニアを属国化するということもやりました。西暦41年1月24日、何と皇帝親衛隊の将校たちがカリグラを暗殺してしまったのです。後日、妻のカエソニアとわずか2歳の娘も殺害されました。しかし、兵士やローマ市民は皇帝の暗殺を嘆き、皇帝を継いだクラウディウスは暗殺関係者を全員処刑したのでありました。

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2009年5月16日 (土)

11年

 西暦11年、ローマの法学者マルクス・アンティスティウス・ラベオが没します。今宵は彼の業績を調べてみましょう。

 マルクスは、法学者パクウィウス・アンティスティウス・ラベオの息子として生まれました。父親のパクウィウスは、ジューリアス・シーザーの暗殺者マーカス・ユニウス・ブルータスを支持していました。しかし、マルクスはローマ共和制度を信奉したのでありました。若くして法務官の職に達したのですが、皇帝のコンサルタントという名誉ある立場は断っていました。

 その頃からマルクスは、全ての時間を法学に捧げたのでした。マルクスは法に関係あると思えば、広く一般的な文化も勉強しました。博覧学、法原理、弁証法、そして言語学までも調べあげたのでした。そしてマルクスは生涯に400冊もの本を書いたのでした。それらは、十二表法、近衛兵の布告、および教皇の法、訴訟事件の収集、種々の定義と法的な提案の収集や論評等に及んでいました。それらはマルクスの死後にローマ法学者によって頻繁に引用される様になりました。彼の業績はほとんどが死後に発行されたのでした。ローマの法学の歴史は彼の著書によって保存されていたのでした。また、マルクスは教師でもあり、プロキュリアン法学校の創設者でもありました。

 生涯をかけて特殊な分野を研究して記録すれば、かなりのものが残るのであります。400冊の本とはどれくらいの量でありましょうか。33年間、毎月1冊書き上げれば396冊となります。歴史に名を残すにはそれくらいの努力が必要なのかも知れません。既にこんな努力が不可能な小生は、せめて先人達の偉大な業績を調べて勉強して行こうと心に誓った2009年5月16日でありました。

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2009年5月15日 (金)

10年

 西暦10年には、アレクサンドリアのヘロンが生まれました。ヘロンはエジプト人工学者であり数学者でした。ヘロンが有名なのは、ヘロンの公式があるからであります。今夜は歴史でありながら数学の勉強をやりましょう。

 ヘロンの公式とは、三角形の三辺の長さから三角形の面積を求める公式です。ヘロンが著書「Metrica」の中で証明を書いていたので、ヘロンの公式と呼ばれています。ヘロンの公式を習ったのは、中学のときでありましたでしょうか、はたまた高校のときでありましたでしょうか。三辺の長さをa、b、cとすると面積をSは

S=√s(s-a)(s-b)(s-c) ,ただしs=(a+b+c)/2

となります。この方法を使えば、よく知っている三角形の面積は、底辺×高さ÷2、で出せるのですが、三角形の高さを求める必要がありません。土地は直線で囲んで所有境界を明確にすることが多いのですが、直線で囲まれた図形は三角形に分割できます。だから三角形の簡単な面積の出し方は昔から重宝したのです。三角形の高さは案外求めにくいのですが、辺の長さは線に沿って測れば済みます。

 ヘロンの公式は三角関数の定理、

sin2θ + cos2θ = 1

a2 =  b2 + c2 - 2bc cos A

を使えば証明することができます。数学が得意な方は頭の体操で式を書き出してみては如何でしょうか。ヘロン自身は代数的に証明したのではなく、三角形に内接する円と補助線で証明した。それでは、代数的にヘロンの公式を証明してみましょう。

sin2A + cos2A = 1 を変形して、因数分解すると

sin2 A = 1 - cos2 A =(1+ cosA)(1- cosA )

次に、a2 = b2 + c2 - 2bc cos A から cos A = ( b2 + c2 - a2 )/2bc

これをこの様に変形させます。

1+cos A=( 2bc + b2 + c2 - a2 )/2bc={ ( b + c )2  - a2}/2bc

             ={ ( b + c + a ) ( b + c - a ) } /2bc

ここで a + b + c = 2s と置くと、b + c - a = 2s - 2a = 2( s - a )

∴1+cosA={(b+c+a)(b+c-a)}/2bc={2s2(s-a)}/2bc 

∴1+cosA= 2s ( s - a ) /bc 

同様に

1-cosA=(2bc-b2 -c2 +a2 )/2bc={ a2 - ( b - c )2}/2bc

      = { ( a + b - c ) ( a - b + c ) } /2bc

ここで a + b + c = 2s と置くと、

a + b - c = 2s - 2c = 2( s - c )

a - b + c = 2s - 2b = 2( s - b )

∴ 1 -cos A ={ ( a + b - c )  (a - b +c) }/2bc

                    ={2(s -c) 2 s-b ) } /2bc

∴ 1 - cos A = 2( s - b ) ( s - c ) /bc

1+ cos A と 1- cos A が得られたので、

sin2 A =  ( 1+ cos A ) ( 1- cos A )

= 2s ( s - a ) /( bc ) ×  2( s - b ) ( s - c ) / ( bc )

= 4 s ( s - a ) ( s - b ) ( s - c ) / ( b2 c2 )

∴ sin A =  √{s  ( s - a ) ( s - b ) ( s - c ) } × 2/bc

三角形の面積は、 高さをhとすると面積=bh/2、h=c sinA より、

面積=bh/2 = bc sin A/2 = √s(s - a)(s - b)(s - c)

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2009年5月14日 (木)

9年

 西暦9年にトイトブルクの戦いが勃発しました。ウァルス率いるローマ軍がアルミニウス率いるゲルマン人に大敗してしまい、アウグストゥスはローマ帝国のライン川以北を属州化するという野望を断念せざるを得ませんでした。

 トイトブルクの戦いとは、トイトブルク森の戦いとも称せられ、トイトブルクの森の中で行われた戦争でありました。西暦7年にゲルマニア総督に就任したプブリウス・クインクティリウス・ウァルスは貴族の出身でした。ウァルスはゲルマンから貢ぎ物を要求するだけで、征服する政策は取らなかったのです。ケルスキ族はこのウァルスの平和主義を利用して時間稼ぎをし、戦争の準備を進めていました。そして遂にケルスキ族の族長アルミニウスが反乱を起こしたのでした。

 ウァルスも軍事行動を起こすべく、ローマ軍を連れてトイトブルクの森に入りました。そこは道が細く辺りは沼地の上、激しい嵐が起こり、ローマ軍は隊形が乱れてしまい組織的な行動ができなくなってしまいました。そんな状況下で、アルミニウスはローマ軍との正面衝突を避けて、森の中に潜めたケルスキ兵が襲いかかるというのゲリラ戦に出ました。待ち伏せては攻撃し森の中に隠れて行くというパターンを連日繰り返したのです。ローマ軍は勇敢に戦ったのですが、悪天候の中で一方的に殺戮され、何と2万人ものローマ軍兵士が倒れてしまったのでした。この敗北を知ったアウグストゥスは、「ウァルスよ、我が軍団を返せ!」と叫んだそうです。

 翌年の西暦10年になって、ティベリウスがゲルマニア総督となり、ゲルマン人が侵入するかも知れないという脅威はなくなりました。ティベリウスはその後、アウグストゥスの後を継いで第2代ローマ皇帝となるのですが、このときの経験を活かし辺境防衛網の確立に政治的手腕を発揮するのでした。ティベリウスの話題は、皇帝に就任する西暦14年、すなわち6日後の夜に。ともかく、トイトブルグの森を流れるエルベ川はロマンス語とゲルマン語の境界となり、現代でもフランスとドイツの国境であります。

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2009年5月13日 (水)

8年

 西暦8年、ローマの小ユリアがトゥリメルス島に追放されました。小ユリアはアウグストゥスの実の孫でありながら、彼が作った法律をが破ったため、泣く泣く彼女を追放したのでありました。今夜はその小ユリアの話題を取り上げましょう。

 初代ローマ皇帝アウグストゥスは神とまで崇められたのですが、家庭には恵まれず、3度も結婚して生まれた実の子は、2番目の妻とのあいだにできたユリアという娘だけでした。アウグストゥスは一人娘のユリアを立派に育てようと、躾や教育には実に厳しくあたりました。見知らぬ男に会うことは厳重に禁止する程だったのです。こうして大事に育てたユリアを14歳で嫁に出します。相手は従兄弟のマルケルスだったのですが、早死にしてしまいました。

 そして18歳でアグリッパと結婚させられました。アグリッパはアウグストゥスが信頼する将軍で、ユリアより倍以上も年上でした。アウグストゥスの妹と結婚していたのですが。これを離婚させて結婚させたのでした。ユリアはアグリッパが嫌いだったようで、若く美しいユリアに言い寄ってくる男達と片っ端から浮気をしたそうです。アグリッパはスキャンダルを恐れて黙認し51歳で亡くなってしまいました。次の結婚相手は、アウグストゥスの3人目の妻リウィアの連れ子ティベリウスでした。リウィアはティベリウスを皇帝にしたかったので、妊娠中の妻と別れさせてユリアと結婚させたのでした。ユリアはまたもこの夫を嫌い浮気を重ねてしまいました。そしてついにユリアの乱行ぶりがアウグストゥスの耳に入りました。一時はユリアの死刑さへ考えたのですが孤島に幽閉し、ユリアは栄養失調となり52歳で亡くなりました。

 ユリアはアグリッパとの間に小ユリアという娘をつくりました。母のユリアと同様に厳格に育てられたのですが、母と同様に放蕩に育ってしまいました。アウグストゥスは、2人のユリアとアグリッパを自分の3つのおできと呼んだそうです。そして、西暦8年、ユリアは浮気相手と共にアウグストゥスに陰謀を企てとして、姦通罪でトゥリメルス島に追放されました。アウグストゥスが作った姦通罪を実の孫のユリアが破ってしまったのです。西暦14年にアウグストゥスが崩御するのですが、その後も小ユリアは幽閉され続け、西暦28年に亡くなりました。追放生活の20年間はリウィアの援助を受けていたのでありました。

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2009年5月12日 (火)

7年

 西暦7年、ヴォノネス1世がパルティア皇帝に即位て2年目となりました。ローマに人質として送られていたのですが、パルティア王位の継承問題の混乱から返してくれと求められ王として帰国したのです。今夜はこの継承問題を取り上げましょう。

 紀元前77年、80歳という高齢で王位を継いだシナトルケスが7年後に崩御し、その後を継いだのが息子、フラーテス3世でありました。フラーテス3世はアルメニアの侵攻に成功し、領土の一部を奪回と活躍したのですが、何と息子のオロデス2世とミトラダテス3世に暗殺されてしまいました。そしてオロデス2世が王位につき、継承に負けたミトラダテス3世はローマに逃げ、第1次パルティア戦争のきっかけを作ってしまました。

 オロデス2世はパルティアン・ショットでローマ軍に大勝利しました。その後の戦いで長男であり後継者として筆頭のパコルス1世を亡くし、ローマ軍にも破れました。オロデス2世には30人も息子がいたので、筆頭がいなくなれば王位継承問題が勃発するのは必至でありました。この継承レースを抜け出したのがフラーテス4世です。フラーテス4世はオロデス2世を暗殺してしまいました。そして王位につき兄弟を殺して政権の安定を図りました。フラーテス4世にはヴォノネス1世という息子がいたのですが、ローマの圧力をかわすためアウグストゥスと講和するため息子を人質に出し、代わりにアウグストゥスが贈ったイタリア人の奴隷の少女ムサと結婚しました。ムサとの間にはフラーテス5世が生まれました。

 彼女は息子を生んだ頃、女神ムサとまで呼ばれる様になっていました。奴隷から女神へと駆け上がった彼女は、自分の息子フラーテス5世に王位を継がすべく、紀元前2年にフラーテス4世を毒殺し息子に王位を継がせたのでした。更にあろうことか、自分の息子と結婚し、ムサは王妃となってしまったのでした。しかしこんなことで国が治められるはずがありません。パルティアの貴族は大反発し、西暦4年にフラーテス4世と共に殺害されてしまいました。貴族達はオロデス3世を王に擁立したのですが、やり方が残虐だと国内の支持が得られないばかりか殺害までされてしまいました。パルティア王はやはり直系からと、ここでヴォノネス1世がローマから呼び返されたのでありました。皮肉にも、ローマで何不自由なく育てられたヴォノネス1世は当然ながら親ローマ政策を取り、これがローマの傀儡(かいらい)と見なされ国内の支持が得られなかったのです。そして彼も西暦12年には王座を追われてしまうのでした。

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2009年5月11日 (月)

6年

 西暦6年、前年に平帝を毒殺した王莽(おうもう)は孺子嬰(じゅしえい)を皇太子に立て、自分は摂皇帝という皇帝代行になりました。元号は元始5年から居摂(きょせつ)元年となります。孺子嬰は第9代皇帝の宣帝(せんてい)の孫という皇帝の血筋ではあるのですが、この年まだ3歳 にしかすぎず、実質は王莽が皇帝ということになります。事実、2年後の居摂3年には、初代皇帝、劉邦の霊が皇帝になっても良いと言ったといい王莽は皇帝の座についてしまうのです。そして国名まで漢から新に変えてしまいました。

 念願の皇帝となったとき王莽の歳は既に53でした。現在ではまだまだこれからという年齢ですが、2000年前は間違いなく老人の年齢でした。これまでの努力が実ってやっと皇帝になったのです。どんな努力をしてきたかというと、娘を平帝に嫁がせたり、官僚や漢の一族に恩賞を与えて支持をとりつけて来たのです。それでいて儒教を尊び、表面上は礼を重んじ謙虚に振る舞い民衆受けも狙っていました。

 王莽は周の治世を理想とし政治改革を行ったのですが、周といえば新から更に遡ること1000年前の時代です。1000年も前の治世がうまく行くはずがありません。各種政策は短期間のうちに破綻して行きました。豪族を解体しようと、土地の国有化や奴婢の禁止令を出しても、豪族らは力のない王莽の指示に従いませんでした。物価統制を図ろうと専売制を強化しようとしても商人に反対されました。それに追い打ちをかける様に旱害が起こり大飢饉となりました。そんなときでも、王莽は豪華な宮殿を造って美女を集め、豪奢な宮中生活を楽しんでいたのでした。

 この様な政局の不安定を見て、匈奴の侵入が激しくなって来ました。これを一気に討伐しようと、王莽は30万もの大軍を送ったのですが大敗し、財政は更に困窮してしまいました。こうなれば暴動が起きないはずはありません。漢の復興を求めて、華北一帯で眉毛を赤く染めた農民の反乱が起きました。五行説による漢の色は赤だったので、農民は眉毛を赤く染めたのです。この反乱は赤眉の乱と呼ばれ、西暦23年には、更始帝と称した劉玄(りゅうげん)が新の都、長安に入城しました。この混乱の最中、王莽は杜呉(とご)という商人に殺さてしまいました。そしてここに新は滅亡したのでありました。ちなみに、中国では暴君が皇位にある時天変地異が起こると信じられていたので、西遊記の作者、呉承恩(ごしょうおん)は孫悟空が暴れた時期を王莽の時代と設定したそうです。

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2009年5月10日 (日)

5年

 西暦5年、前漢で事件が起きました。王莽(おうもう)が平帝を毒殺したのです。悪名高き王莽の話題は明日することにして、今日はその年に完成した三統暦(さんとうれき)の話題であります。

 三統暦とは、経学者であり、天文学者であり、かつ目録学者でもあった劉歆(りゅうきん)が作った太陰太陽暦による天体暦です。劉?は後に名を秀に改名するのですが、それは「劉秀が天下を取る」という予言がなされたことによります。しかし、西暦23年に、王莽に息子を殺害されたことを恨みに思って企てた謀反は失敗し、劉歆は自殺してしまいました。王莽を滅ぼしたのは後漢を建国した光武帝で、その名は劉秀でありました。

 三統暦は西暦85年まで使われ、日月食の予報や五惑星の位置まで計算されていました。20世紀も前に中国では惑星の運行が計算できていたとは驚きです。三統暦の意義は暦としてだけではなく、度量衡と五声(ごせい)十二律が規定されていたことにあります。長さの単位(度)を秬黍(きょしょ、くろきび)の1粒の幅の長さを1分、容量の単位(量)を秬黍が1200粒入る黄鍾の管の容積を1龠、重さの単位(権)を1龠に入る秬黍1200粒の重さを12銖と定め、次の三統暦の規定で後の中国の度量衡を実践させたのです。

度(長さ):分、寸(10分)、尺(10寸)、丈(10尺)、引(10丈)
量(容量):龠(2龠)、升(10合)、斗(10升)、斛(10斗)
権(重さ):銖、両(24銖)、斤(16両)、鈞(30斤)、石(4鈞)

 五声とは、宮(きゅう:ド)、商(しょう:レ)、角(かく:ミ)、徴(ち:ソ)、羽(う:ラ)の五つ音階です。五声には身分も対応しており、宮は君主、商は臣下、角は民 、徴は事、羽物となっていました。また、十二律は1オクターブを半音階づつ12の音階で分けたもので、黄鐘(こうしょう:C)、大呂(たいりょ:C#)、太簇(たいそう:D)、夾鐘(きょうしょう:D#)、姑洗(こせん:E)、仲呂(ちゅうりょ:F)、蕤賓(すいひん:F#)、林鐘(りんしょう:G)、夷則(いそく:G#)、南呂(なんりょ:A)、無射(ぶえき:A#)、応鐘(おうしょう:B)の十二音階です。こうして中国音楽の基礎が築かれたのでした。

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2009年5月 9日 (土)

4年

 西暦4年の話題は隣の国、韓国から。この年、新羅の初代国王、赫居世居西干(かくきょせいきょせいかん)が崩御され、南解次次雄(なんかいじじゆう)が第二代国王に即位されました。新羅と言っても、当時の韓国の南部は三韓と呼ばれていた時代で、新羅になる地域は辰韓(しんかん)という12の国で構成されていました。後の二韓は、後に百済になる50数カ国にも分かれていた馬韓(ばかん)と、後の任那(みまな)になる12カ国でなる弁韓(べんかん)でした。

 さて、初代国王、赫居世居西干の出生は神話時代の物語であります。紀元前69年3月1日のことでありました。新羅6村の長たちが、徳のあるものを6村の王にしようと相談して決めました。一行が丘の上から眺めてみると、陽山の下の蘿井(らせい)という井戸に一匹の白馬がひざまずいて頭を垂れています。駆けつけてみるとそこには赤い大きな卵があり、白馬は長たちを見るといななきを残しながら天に昇っていきました。

 卵を割ってみると中から容姿端麗な童子が現れました。東川で沐浴させると、童子は光輝き、鳥獣たちが一緒に踊り回り、天地は揺れ動き、日月は清明になったそうです。世を明るく照らすということでこの童子は「赫居世」と名付けられました。そして、閼英井(あえいせい)で鶏龍の左脇腹から生まれるという神秘的に出生した閼英と結婚させました。赫居世が13歳になった紀元前57年にこの二人を王と王妃にしたのでした。生まれた卵がまるで瓢の様だったので姓を「朴」としたそうです。

 西暦4年3月に赫居世の後を継いだ南解次次雄は、赫居世と閼英との間に生まれた長子であります。即位してすぐの7月には中国の楽浪群から進入を受け、首都の金城が包囲されてしまいました。南解は自分の不徳と嘆いてどうすべきか左右の重臣に問うと、
敵は我らが喪に服していることを幸いに攻め込んだのだから天の加護を得られるはずはない、と答えたのでした。すると敵兵は退き帰っていったのでありました。

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2009年5月 8日 (金)

3年

 西暦3年、第11代天皇、垂仁天皇(すいにんてんのう)の32年ですが、皇后、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が崩御されました。ここに埴輪の歴史が始まるのであります。

 その年から遡ること25年前、垂仁天皇7年の7月7日のことでした。当時、富麻邑(たぎまむら)の住人で富摩蹶速(当麻蹴速、たぎまけはや)と名乗る力持ちがおりました。どれくらいの怪力かというと、鉄の鍵を指で曲げて伸ばすほどだったそうです。闘争心も旺盛で「ひたぶるに生死を問わず力比べせむ」と力比べの相手を探してたそうです。

 それを聞いた垂仁天皇が他に強者はいないかと尋ねると、出雲国に野見宿禰(のみのすくね)という勇人がいると群臣の一人が答えたのでした。天皇は野見宿禰を都に連れて来て二人に相撲を取らせました。初の天覧試合であります。当時の相撲は蹴り合いだった様で、野見宿禰があっけなく富摩蹶速の脇骨と腰を蹴り折って勝ったそうです。これで野見宿禰が初代横綱となりました。なお、野見宿禰と富摩蹶速は相撲の神として祭られています。

 そして25年が経ちました。野見宿禰は土地が与えられ都に住んでいました。皇后が崩御されたとき天皇が古来からある殉死の風習に代わるものはないかと群臣に問うと、その中にいた野見宿禰は土物(はに)を提案しました。野見宿禰は故郷の出雲から土部百人を呼び寄せて、彼らと共に埴(はにつち)を集め、人や馬等の土物を造って天皇に献上したのであります。土物は埴輪(はにわ)と名付けられました。出雲の野見宿禰は相撲と埴輪を造ったのでした。

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2009年5月 7日 (木)

2年

 西暦2年はどんな年だったかというと、第3次パルティア戦争が勃発した年でした。われわれ日本人にパルティアとは聞き慣れない言葉であります。ヨーロッパに隣接したアジアで習ったのはペルシャ帝国とアーリア人の侵略くらいだったのではないでしょうか。ということで、今日はパルティアの歴史を勉強したいと思います。

 紀元前227年、勢力が衰えたペルシャの後、イラン高原東北部にアルサケスがパルティアを建国しました。アルサケスは最古の騎馬民族と言われるスキタイを源流に持つダーハ族から分流したパルニ族の遊牧民の長でありました。この頃、遊牧民は南へ進行し始めていたのです。

 紀元前141年になると、パルティアのミトラダテス1世はバビロニアの侵攻に成功しインド北西部まで征服します。そして紀元前123年から王位を継いだミトラダテス2世はメソポタミアからインダス川までを支配し、イラン地方の覇者となり、バシレウス・バシレイオン(諸王の王)と名乗るまでになりました。紀元前92年には初めてローマと会談して接触を開始しました。その後、ローマから侵攻を受けることになり、また王位継承の内紛に負けたミトラダテス3世がローマに逃げて支援を受けることになり、紀元前53年にローマ軍がパルティアに進軍しました。これが第1次パルティア戦争で、結局パルティアが勝利を収めます。紀元前39年にはシリアの奪取をかけて第2次パルティア戦争がおこり、そして西暦2年にアルメニアの領有を巡って第3次パルティア戦争が起こりました。その後、ローマとパルティアとの戦争は続き、西暦217年の第8次パルティア戦争まで続きます。

 パルティアは遊牧騎馬民族が起こした国なので、弓と馬が得意でした。当然軍隊も主力兵は軽装で弓だけを用いて戦っていました。基本的な先頭パターンは、敵と一定の距離を保って弓を引くものでした。できるだけ白兵戦の会戦を避け、会戦になりそうになるとすぐ退却し、退却しながらまた弓を引いてくる。それで敵の体勢が崩れるとまた引き返して攻め込むという遊牧民特有の戦法でありました。この戦法にローマ軍はかなり苦しんだ様です。ローマ帝国が初めて対峙した遊牧民がパルティアだったので、彼らが逃げるとき馬上から振り返り様に弓を打つことを「パルティアン・ショット」と呼んだそうです。今ではパルディアン・ショットは「捨てぜりふ」の意味になったそう。本来のパルティアン・ショットは逃げながら射る矢ではなく、彼らの戦法でありました。

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2009年5月 6日 (水)

1年

 さて、西暦1年。中国は前漢の元号が変わります。哀帝劉欣が亡くなって、第一三代皇帝となる平帝劉衍(りゅうえん)が即位し、元号を元始としました。哀帝が亡くなったのは25歳、平帝が即位したのは9歳と、そろそろ前漢も危ない感じがします。平帝は4年後に毒殺され、内乱が始まり、劉邦が建国した前漢は、第十四代皇帝の孺子嬰(じゅしえい)で終わってしまいます。そこで、今日は劉邦のことを調べてみました。

 劉邦と言えば、農家の三男として生まれながら、乱れた始皇帝の世を漢を建国することによって治めた英雄中の英雄であります。漢はもともと一地方の名前だったものが、漢民族という様に中国を代表する呼び名になりました。劉邦が生まれる前、父の劉太公が沢でうたた寝をしていると、夢の中で神に会い、母の劉媼の上に龍が乗っている様子を見たそうです。

 劉邦は農業を嫌がり酒ばかり飲んでたそうで、亭長(今の警察分署長)に就任した後も不真面目な仕事ぶりだったそうです。ところが、仕事で失敗しても周りが擁護してくれる、酒屋に行けば人が集まり満席になると、たいへん人望がありました。あるとき始皇帝の行列を見て「ああ、立派な男とはこの様な者であるべきだ」と言ったのに対し、後に対決する項羽が行列を見たときは「あいつに取って代わってやる」と言ったことでも、人望を得る劉邦の性格がわかります。

 秦は二世皇帝となり、悪名高き宦官の趙高(ちょうこう)が実権を握ったため民衆の不満が爆発し、全国的な反乱に陥りました。将軍の家柄の出身である項羽は反秦軍を率いて劉邦と共に秦を滅亡させました。その後、西楚の覇王を名乗る項羽と、その項羽から封建されて漢王となった劉邦との間での権力抗争が生じます。これが五年間続いた項羽と劉邦の戦いと称される楚漢戦争です。当初は項羽が優勢だったものの、投降した兵士を虐殺する悪政を行っていました。それに対し劉邦は、部下の意見をよく聞き、民衆の慰労に努め、兵力を回復させながら増強して行きました。そしてとうとう紀元前220年、垓下(がいか)の戦いで項羽を打ち中国統一を果たしたのであります。

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2009年5月 5日 (火)

0年

 今日から歴史の勉強を始めることにしました。10万年前にアフリカで誕生した原人類(ホモ・サピエンス)は世界中に広がり、住み着いた土地で独自の文化を発達させて行きました。それが人類の歴史となるのですが、現代に関係した歴史は西暦(紀元)で始まる2000年分くらいかと思われます。そこで、1日に1年分を2000日かけて、1年分を1000字以内くらいまとめて行きたいと思います。それでは、西暦0年(紀元前1年)から開始します。まずは、紀元前のおさらいから。

 チグリス川、ユーフラテス川の間の肥沃な平野に発生したメソポタミア文明は紀元前3300年頃、ナイル川下流のデルタ地帯に発生したエジプト文明は紀元前3000年頃、インダス川、ガッガル・ハークラー川周辺に発生したインダス文明は紀元前2300年頃、そして黄河に発生した黄河文明は紀元前1600年頃と、紀元前には既に文明が発生していました。また、ローマがイタリア半島を統一したのが紀元前272年、帝政ローマの成立は紀元前27年、秦の始皇帝が中国を統一したのが紀元前221年と、既に国家が誕生していました。紀元前500年頃に釈迦、孔子が生まれ、紀元前4年にはイエスも生まれていました。

 そして、紀元前1年、西暦1年の前年となります。日本は皇紀660年、第11代目の垂仁天皇が即位し29年が経っています。古事記、日本書紀には天皇の歴史が書かれているものの、その他の史実はよくわからないので日本の歴史はもうちょっとしてから始めます。ただ、縄文時代は終わり弥生時代に入っていて、金属を使用し稲作を始め、小さな国が生まれだした頃なのは確実です。国が生まれていたので既に貧富の差はあったものと思われます。中国は前漢の時代で、哀帝劉欣(りゅうきん)が即位して2年目の元寿2年となります。

 ローマ帝国は初代皇帝アウグストゥスの治世が続いています。 アウグストゥスの養父がユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)で、志半ばで暗殺されたカエサルの意志を引き継いで見事に内戦を勝ち抜き、帝政を始めたのでありました。ちなみに、西暦の基礎をなす1年を365日に分割するユリウス歴は、その名の由来の通りカエサルが紀元前45年から実施していました。

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2009年5月 4日 (月)

無信不立

 無信不立(むしんふりつ)は、信(しん)無(な)くんば立たず、と読む。信義の心がなければ、社会生活が送れないという意味だ。

 出典は論語の顔淵である。顔淵の正式名は顔回(がんかい)で、字(あざな)が子淵(しえん)なので顔淵とも言われた。

 子貢問政。子曰、足食、足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去、於斯三者何先。曰、去兵。子貢曰、必不得已而去、於斯二者何先。曰、去食。自古皆有死。民無信不立。子貢(しこう)政(まつりごと)を問ふ。子曰く、食を足し、兵を足し、民は之を信にす、と。子貢曰く、必ず已(や)むを得ずして去らば、斯(こ)の三者に於いて何をか先にせん、と。曰く、兵を去らん、と。子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何をか先にせん、と。曰く、食を去らん。古(いにしへ)より皆死有り。民信無くんば立たず、と。

 政治に必要なことは食料と軍備と信義の三つで、一つ取るとすれば食料よりも信義であると孔子は教えていた。2500年前から、社会を形成するものは信義とされていたのだ。

※2008年12月31日から125の四字熟語を紹介させてもらいましたが、本日を以て終了したいと思います。明日からは趣向を変えた連載を始めたいと思います。

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2009年5月 3日 (日)

遠慮近憂

 遠慮近憂(えんりょきんゆう)とは、遠慮なければ近憂あり、ということだ。すなわち、遠い将来のことまで見通した深い考えをもたないでいると、必ず手近なところに身にさし迫った心配事が起こるということである。

 出典は論語の衛霊公(えいれいこう)だ。霊公は衛の名だたる悪玉として有名で、孔子は好戦的な霊公には仕えないと意思表示していた。

 子曰、人無遠慮、必有近憂。子曰く、人遠き慮(おもんばか)り無ければ、必ず近き憂ひ有り、と。

 今やっていることが良くても、その行為が未来に及ぼすことを考えて良いかどうか。今やっていないことが良くても、未来にやっていないツケが回って来ないかどうか。人は慮ることができるはずだ。

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2009年5月 2日 (土)

発憤忘食

 発憤忘食(はっぷんぼうしょく)は、憤(いきどお)りを発しては食を忘る、と読む。食事を忘れて仕事などに打ち込むことだ。

 出典は論語の述而(じゅつじ)である。論語は出だしの「子曰」の次の二語をタイトルに使うのだが、第七は「子曰、述而不作」と始まるので、述而とうタイトルになった。

 葉公問孔子於子路。子路不対。子曰、女奚不曰、其為人也、発憤忘食、楽以忘憂、不知老之将至云爾。葉公(しょうこう)孔子を子路(しろ)に問ふ。子路対(こた)へず。子曰はく、女(なんじ)奚(なん)ぞ曰はざる、其の人と為りや、憤(いきどお)発しては食を忘れ、楽しみては以(もっ)て憂(うれ)ひを忘れ、老いの将(まさ)に至らんとするを知らずと爾(しか)云ふ、と。

 葉公は葉県(しょうけん)の県知事で、子路は孔子十哲の一人である。発憤忘食の後の、楽しみをもって憂ひを忘れたり、年老いて行くことすらも忘れてしまうというのも大いに参考になる言葉だ。

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2009年5月 1日 (金)

文質彬彬

 文質彬彬(ぶんしつひんぴん)とは、外見の美と実質とが適度にまじって調和しているさまをいう。君子たる条件である。

 出典は論語の雍也(ようや)だ。雍也は孔門十哲の一人、冉雍(ぜんよう)のことで、徳行に優れていたという。

 子曰、質勝文則野。文勝質則史。文質彬彬、自然後君子。子曰く、質文に勝てば則ち野なり。文質に勝てば則ち史なり。文質彬彬として、然る後に君子なり、と。

 内容が外面より勝ると、いなかじみて品がなくなってしまう。文飾のほうが実質より勝ると、書記役の様に誠実さに欠けたものになってしまう。内容である実質と外面である文飾とがほどよく調和がとれて、はじめて君子といえるのである。

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