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2009年6月30日 (火)

56年

 西暦56年は閏年でありました。この年、後漢の光武帝が封禅(ほうぜん)の儀を執行し、元号を建武から建武中元に変更しました。

 封禅の意味はと申しますと、「封」は土を盛り壇を造って天を祀(まつ)ること、「禅」は地をならして山川を祭ることであります。この封禅の儀は、中国古代より泰山で帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式でありました。

 封禅の儀が初めて執り行われたのは、夏より以前の三皇五帝(さんこうごてい)からであります。そして、秦の始皇帝以前に72人の帝王がこの儀を行ったと史記に記載されています。秦の始皇帝が紀元前219年に封禅の儀をやろうと思ったときには、既に長らく儀式は行われておらず、手探りでやったそうです。秦の始皇帝が封禅の儀をやったのは、自分の偉さを現したかったのかも知れません。始皇帝以前は「皇帝」という言葉はなく、単に何々帝と呼んでいたのです。ところが始皇帝は自分は三皇五帝よりも偉いと考え、三皇五帝の「皇」と「帝」を取り出し「皇帝」と造語したのであります。

 始皇帝の次に行ったのが、秦の2代目皇帝、胡亥(こがい)であります。秦代ではこの二人しか行われず、次が漢の武帝が紀元前110年から紀元前89年の間に8回も行いました。武帝以降の帝王は封禅を行わず。後漢を迎え建武32年にして、ようやく光武帝が封禅を行うことになりました。光武帝は、自分が始皇帝や武帝ほど大きなことをやっていないと思ってはいたものの、治世して32年も経ち、自分もそろそろ歳ということもあり思い切って封禅の儀を行ったのです。そのおかげでこれ以降は儀式を行う敷居が下がり、並の帝王でも封禅を行う様になったのであります。

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2009年6月29日 (月)

55年

 西暦55年、クラウディウスの実子でありローマ帝国の帝位後継者でもあるブリタニクスが暗殺されました。ネロの仕業です。

 ブリタニクスが生まれたのは、クラウディウスが皇帝に即位した西暦41年なので、クラウディウス50歳の子供となります。母親はクラウディウスの3番目の妻妻メッサリナであります。兄弟には姉のクラウディア・オクタウィアがいました。

 西暦44年にクラウディウスがブルタニア制覇の凱旋式を行ったのですが、遠征勝利を祝してわが子をブルタニクスと改名しました。それまではゲルマニクスだったのです。西暦48年に母親のメッサリナが処刑され、翌年小アグリッピナが継母となります。小アグリッピナは連れ子ネロと、ブルタニクスの姉オクタウィアを結婚させ、ネロをクラウディウスの養子とします。西暦53年にオクタウィアが結婚したとき、彼女はまだ12歳でした。

 小アグリッピナはネロを皇帝とするため数々の計略を図り、夫クラウディウスは毒キノコで暗殺してネロを皇帝にすることに成功しました。残る脅威はブリタニクスだけです。ネロは晩餐で義兄弟のブルタニクスを暗殺します。ネロはこの後、気に入らない者は家族であろうとお構いなしに殺害し、暴君としての地位を固めて行くのでした。1990年11月15日、ベルギーの天文学者エリック・ヴァルター・エルストがヨーロッパ南天天文台で小惑星を発見しました。彼はその小惑星をラシーヌと名付けます。ラシーヌは17世紀フランスの悲劇作家ですが、ブルタニクスを主人公とした悲劇ブリタニキュスを書いています。

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2009年6月28日 (日)

54年

 西暦54年、ローマ帝国の第四代皇帝クラウディウスが崩御し、第五代皇帝としてネロが即位しました。暴君として有名になったネロですが、彼のおかげでユリウス・クラウディウス朝は終演を迎えるのあります。

 カリグラが無茶苦茶にしたローマ財政を立て直し、ブルタニア遠征を成功させる等、50歳にして皇帝に担ぎ出されたにしては目覚ましい皇帝ぶりを発揮したクラウディウスであります。しかし、彼は家庭には恵まれていませんでした。特に3番目の妻メッサリナはクラウディウスの権力を使って自分の性欲を満たし、あげくクラウディウス殺害を図るのですがばれて逆に処刑されました。そして小アグリッピナは連れ子ネロを皇帝にするためクラウディウスと結婚し、毒キノコをクラウディウスに食べさせました。クラウディウスの死因は毒キノコ中毒でしたので、小アグリッピナが暗殺したと信じられています。

 小アグリッピナはクラウディウスの姪に当たります。当時のローマの法律では親戚との結婚を禁じていたのですが、メリッサが殺されるとすぐに強引に叔父クラウディウスと結婚しました。その時点でネロはクラウディウスの継子だったのですが、小アグリッピナの計らいで養子となります。小アグリッピナの正式名はユリア・アグリッピナなのですが、クラウディウスに頼んでアウグスタの称号を与えてもらい、ユリア・アウグスタ・アグリッピナと改名します。それまで生前にアウグスタの称号を付けることはなかったのです。彼女は権力も欲したのでした。

 小アグリッピナはネロを皇帝とするため、脇の人事を固めて行きます。同時にクラウディウスの息子ブリタニクスを孤立化する様に図って行きました。クラウディウスが崩御した後、まんまとネロを皇帝とすることに成功しました。しかし、小アグリッピナは苦労して皇帝にした我が息子ネロに殺されることになるのです。

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2009年6月27日 (土)

53年

 西暦53年、高句麗で解憂が臣下の杜魯に殺害され慕本王となりました。慕本王は我が子、翊(イク)を太子としていたのですが、出来が悪かったので瑠璃明王の孫、高宮(コクン)が第6代の王位を継承したのであります。

 高宮はまだそのとき7歳だったので、しばらくは母親が摂政しました。高宮は退位するとき、太祖大王(クッチョワン)と名付けられるのですが、6代目の王に太祖と名付けられるのは異例のことでした。なぜなら、太祖は王朝の始祖に付けられる称号だからであります。高宮が太祖と名付けられたのは、その活躍にあります。高宮は高句麗を弱小な小国から、領土を広げて行き朝鮮半島の三国の一つとして確固たる地位を確立させたからであります。しかも在位期間は93年という信じがたい長さです。つまり、王朝の始祖に等しいと見なされたからであります。

 西暦56年、高宮10歳にして隣国の東沃沮(とうよくそ)を攻め領土としました。それからは破竹の勢いで討伐を続けます。西暦68年には曷思、西暦72年には藻那、西暦74年には朱那という具合です。それ以降も遼東郡を攻め入ったりして、在位中は戦いと領土拡大に尽力し続けました。

 高宮が退位するのは、西暦146年、高宮100歳のときでありました。そして、没したのが西暦165年であります。高宮119歳の春でした。なお、これらの年代は朝鮮古代の新羅、百済、高句麗の三国を書いた三国史記によるのでありますが、後漢書では高宮が崩御したのは西暦121年、75歳としています。三国史記は「後漢書の誤記」とわざわざ書いているのですが、真実はどちらでありましょうか。

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2009年6月26日 (金)

52年

 西暦52年、王になることを目標として、ティリダテス1世がパルティアからアルメニアに入ります。当時のアルメニアはローマ帝国とパルティアの権力争いに翻弄されていたのでした。

 アルメニアはアルメニア語で国名をハヤスタンと言います。ハイ族の族長アルメナケが一族をアルメニア族と名乗ったことが、アルメニアの紀元と言われています。紀元前6世紀頃に既に商売が行われており、紀元前190年にはアルメニア王国が建国されていました。しかし、紀元前66年にローマに支配されてしまいました。

 西暦37年になると、パルティアがアルメニアを支配し始めます。これ以降、パルティアとローマ帝国の間でアルメニアの奪い合いが始まるのです。西暦51年にヴォロガセス1世が王位に就くと、彼は弟のパコルス2世を近隣のアトロパテネ王としました。更に、もう1人の弟ティリダテスをアルメニア王とすべくアルメニアに送ったのです。当時のアルメニアはイベリア王国の王子ラダミストゥスが王位に就いていました。

 ラダミストゥス以前のアルメニアは、ミトリダテス王が治めていました。ラダミストゥスはミトリデタス王の甥であり、ミトリデタスの娘ゼノビアを嫁としていたので、義理の息子でもあったのです。ラダミストゥスは、野心家であり武闘派でありました。父のイベリア王ファラスメナス1世は、ラダミストゥスが義理の父親ミトリダテス王を討ってアルメニアを乗っ取るのではないかと懸念していたのですが、西暦51年その懸念は現実となったのでありました。ヴォロガセス1世は、強奪者ラダミストゥスの不満分子を扇動することで、弟ティリダテスにチャンスを作ろうと考えたのです。ヴォロガセス1世の陰謀は成功するのでしょうか。

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2009年6月25日 (木)

51年

 西暦51年、ローマ帝国でクラウディウス皇帝ともう一人のコンスルとして、ウェスパシアヌスが選出されました。ウェスパシアヌスは18年後、第9代のローマ皇帝となるのでした。

 ウェスパシアヌスの父は、アナトリア半島西部、現在のトルコに当たるアシア属州の徴税請負人フラウィウス・サビヌスでした。母ウェスパシア・ポッラは騎士階級で、母の方が身分が高かったのです。父は結婚して騎士階級となりました。つまり、ウェスパシアヌスの身分は皇帝になるにしては低い身分だったということであります。

 ウェスパシアヌスは子供を3人もうけますが、一人は早世しましたが、残るティトゥスとドミティアヌスは二人とも皇帝となります。この西暦51年は弟のドミティアヌスが生まれた年でもあります。

 ウェスパシアヌスは最初、軍隊に入りトラキアに勤務します。それから彼は軍隊でキャリアを積んで行きます。西暦37年に財務官を意味するクァエストルに当選しました。更に西暦40年には法務官となるプラエトルに当選します。西暦41年にクラウディウスが皇帝になるとゲルマニアに異動します。そして西暦43年にはブルタニア遠征に参加し成功を収めます。その後、執政官たるコンスルに就くわけですが、ウェスパシアヌスが登り詰めたキャリアとしては十分だったと思われます。その後彼は軍隊を退役し公職から退いたのでありました。この頃はまさか皇帝になるなどとは夢にも思わなかったのではないでしょうか。

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2009年6月24日 (水)

50年

 西暦50年、キリスト教がローマ帝国に広がり始めます。最初に根付いたのは、東マケドニアの古代都市ピリッポイだと言われています。

 ピリッポイは、紀元前356年にマケドニア王ピリッポス2世によって建設されました。王はこの都市で付近の金鉱の開発を促進し、軍事防衛の拠点とするつもりだったのです。歴代の王はピリッポイに自治権を認めていました。紀元前167年、アンティゴノス朝が滅びてローマ領となったマケドニアは四つに分割され、ピリッポイは東マケドニアに編入されました。

 ローマ領となってからピリッポイの土地は、四角く区画割りされ入植者に分配されました。以前からあったギリシア風のアゴラの東側にローマ風のフォルムが追加され、さながら小型ローマという風を呈して行ったのです。付近に金鉱山があるため、ピリッポイは豊かな街でした。小規模な都市に大きなモニュメントが数多くありました。円形劇場は拡張され、ローマ風の競技会が行われていました。

 西暦50年、使徒パウロは幻に導かれピリッポイを訪れました。シラス、テモテ、ルカが同行し、彼らはこの街でキリスト教を伝道しました。ピリッポイはパウロが初めて訪れたヨーロッパの都市でありました。パウロが占いを行う少女から悪霊を追い出したのですが、それが原因で暴動が起きました。この騒ぎでパウロとシラスは逮捕され投獄されます。しかしその晩、地震が起き牢屋の扉が開いてしまいました。これを見た牢番は、囚人が逃げ出したと思い込み自殺を図ろうとしましたが、パウロは牢番の自殺を止めたのであります。そして、牢番とその家族はキリストを信じ始めたのでありました。彼らこそヨーロッパで初めてのキリスト教改宗者であります。

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2009年6月23日 (火)

49年

 西暦49年、後漢の名武将、馬援(ばえん)が亡くなりました。63歳での戦闘先での病死でありました。

 馬援の先祖は、中国戦国時代、紀元前280年頃から活躍した趙奢(ちょうしゃ)であります。紀元前269年、 秦が趙国の南部、閼与(あつよ)に侵攻したとき、恵文王(けいぶんおう)に進言して戦いに参加し、秦軍を敗退させました。恵文王は趙奢の戦功を大いに称え、馬服君(ばふくくん)という称号を与えました。馬援の馬という氏は、この称号に由来すると言われております。

 馬援12歳のとき、父の馬仲(ばちゅう)が亡くなり、長男の馬況(ばきょう)が馬援の面倒を見ることになったのですが、馬援は北方での牧畜を望みました。馬況も間もなく亡くなり、逆に馬況の嫁の面倒をみることになって北方へ行くことができなくなりました。それで、囚人の護送業務をしていたのですが囚人を哀れに思って逃がしてしまい、自分も北へ逃亡してそこで念願の牧畜を始めました。そこへ馬援を慕う人がどんどん訪れました。馬援は儲けた金品を人に与え、自分は粗末な身なりで仕事に熱中しました。そのためますます人が集まりました。後に隗囂(かいごう)の配下となりました。公孫述の内情を調べさせるため、同県人で旧知の馬援を蜀に使わせました。馬援は公孫述を懐かしく思い会ったのですが、公孫述は皇帝の権威を振りかざしたのでした。幻滅した馬援は公孫述を「井の底の蛙」と評したのであります。

 次に馬援は光武帝に会いに行ったのですが、礼儀に拘らず暖かく迎えてくれる器の大きさに感激し、隗囂に光武帝に就くべしと説得しました。そして、隗囂が長子の隗恂(かいじゅん)を人質として光武帝に送る際、隗恂と共に洛陽に行き光武帝に臣として降りたのでした。その後、隗囂が光武帝と対立し病死してしまうと、ずっと光武帝に就くことになります。西暦41年にはベトナムで反乱を起こした徴姉妹を鎮圧します。西暦48年には、南方民族の武陵五渓蛮が反乱を起こしたので出陣を願い出ました。この時、既に馬援62歳の高齢であり、光武帝も年齢を理由に止めたのですが、馬援はまだ馬に乗れると飛び乗ったのであります。それを見た光武帝は笑いながら「矍鑠(かくしゃく)たるかな、この翁」と言って出陣を許したと言われています。なお、老いて元気な老人を矍鑠と褒めるのは、このときからと言われております。

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2009年6月22日 (月)

48年

 西暦48年、高句麗の無恤が崩御し、閔中王と諡されました。そして第五代王として、大武神王の嫡子、解憂(ヘユウ)が即位しました。

 解憂は西暦30年生まれなので、18歳での即位になります。翌年、いきなり漢と接する地域を襲撃し始めます。しかし、遼東の太守がうまく交渉し、漢との仲はこじれずに済んだのであります。

 当初は良王だったのですが、即位後2年目となると暴君と化して行きました。座るときは常に人の上に座る様になり、寝るときも人を枕にして寝る始末です。少しでもそれらの者が動こうものなら、容赦なく殺してしまいました。それを諌める家臣も殺してしまうのです。若くして王となりおかしくなってしまったのでしょうか。

 西暦52年の冬、解憂の側近の杜魯(デュロ)が哭いているのを、ある者がなぜ泣くか尋ねました。杜魯は、王が暴虐をして人を殺せば、百姓の恨みを買うからと答えたのであります。国民あっての王なのに、その国民を殺すとは本末転倒とわかっての決断だったのでしょう。杜魯は刀を隠して王の前に進み、王が坐るやいなや斬り付け殺害しました。解憂は慕本原に埋められたので、慕本王(モボンワン)と諡されました。

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2009年6月21日 (日)

47年

 西暦47年、匈奴が南北の二つに分かれてしまいました。北匈奴と南匈奴の二つであります。

 匈奴は紀元前5世紀頃から5世紀にかけて、モンゴル高原を中心に一大勢力を築きました。4~6世紀にローマ帝国に攻め込んだフン族は、このとき分離した北匈奴と見なされています。かなり早い時期からモンゴル高原に遊牧民族がいたようです。紀元前5世紀頃から、スキタイ文化の騎馬技術と武器を手に入れ、周辺諸国を圧迫していたのであります。

 秦の始皇帝は、匈奴の侵入を防ぐため万里の長城を建築したことで有名です。匈奴の王は単于(ぜんう)と呼ばれます。紀元前209年、冒頓(ぼくとつ)が父を殺し単于の地位を奪うと、それまで匈奴を圧倒していた別の遊牧集団の東胡(とうこ)を滅ぼし大勢力に成長しました。その後、前漢の遠征軍にも大勝し、西の月氏も蹴散らし、モンゴル高原全てを制圧したのであります。前漢の文帝、景帝の時代は、匈奴に対して低姿勢だったのですが、武帝の代になると匈奴を討つ為に動き出し、匈奴を北へ追いやって行きました。

 宣帝の時代になると、匈奴は東匈奴の呼韓邪(こかんや)単于と西匈奴の郅支(しっし)単于に分裂しました。彼らは兄弟でした。呼韓邪単于は国情を安定させるため漢に入朝し、喜んだ宣帝は中国四大美人と称される王昭君を嫁がせました。郅支単于も前漢に入朝したのですが、後に反逆したために前漢に攻め滅ぼされました。そして、後漢の時代となると、醢落尸逐鞮(けいらくしちくてい)は、自らが単于になろうと漢に近づいたため匈奴が二つに分裂したのであります。近付いた方が親漢派の南匈奴であります。

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2009年6月20日 (土)

46年

 西暦46年、トラキアの王ロイミタルケス3世が妻に殺されてしまいました。その結果、トラキアはローマ帝国の属州となったのであります。

トラキアとは、現代ではヨーロッパの火薬庫と呼ばれるバルカン半島東部の歴史的地域名であります。現在は西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコとなっています。

 古代ギリシア時代のトラキアには、元々トラキア人と呼ばれる民族が住んでおりました。彼らはトラキア語を話し、ギリシア人からバルバロイという言葉のわからない者と呼ばれていましたが、独自の文化を誇っていました。紀元前3000年頃の墓が発掘されたりしています。また、多数の精巧な金製品をはじめとする遺物・遺跡が残されています。

 紀元前6世紀頃からトラキア地方にギリシア人の植民都市が建設されるようになりました。この影響により、次第にギリシア文化の影響を受てギリシア語を使うようになりました。紀元前3世紀にマケドニア王国によって征服されると、この傾向はさらに強まりました。その後一時独立を回復したのですが、南部は共和政ローマに支配されました。そしてこの年、西暦46年には北部がローマ帝国の支配下となったのです。その結果、トラキア人はローマ化され、彼ら独自の言語と文化は消滅して行くのでありました。

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2009年6月19日 (金)

45年

 西暦45年、インド北部でクシャーナ朝が建国されました。初代王はクジュラ・カドフィセスであります。

 紀元前5世紀頃からモンゴル高原では遊牧民族の匈奴(きょうど)が勢力を奮っていました。紀元前3世紀頃から月氏(げっし)と呼ばれる遊牧民族が台頭して来て、匈奴と対立し始めました。月氏は現在の中国、新疆(しんきょう)ウイグル自治区にあるタリム盆地で東西貿易を仕切り、匈奴を圧倒する力を誇っていました。ところが匈奴の王に冒頓単于(ぼくとつぜんう)が即位すると、俄然匈奴が強くなり、月氏は西に逃げていきました。西に逃げた月氏は中国から大月氏と呼ばれるようになり、現在のウズベキスタンに当たるソグディアナから、アフガニスタン北部のバクトリアに移住しました。

 大月氏は5部族で構成されていましたが、その中のクシャーナ族の族長クジュラ・カドフィセスが他の部族を押さえたのが西暦45年であります。このときからクシャーナ朝が始まることになりました。クシャーナ族はイラン系の民族であります。クジュラ・カドフィセスは現在のアフガニスタンの首都にあたるカブールをギリシャ王のヘルマイオスと共同統治しますが、後に単独で支配します。また、インド・パルティア王国が統治していたガンダーラも征服し、領土を拡大して行きました。

 クシャーナ朝はローマ帝国との貿易で繁栄して行きます。彼らはローマ帝国に絹や香料、宝石などを売り、代価として金を得ました。その金を金貨として発行したのですが、その流通量は古代インド史上最大とされています。クジュラ・カドフィセスは80歳以上まで生きたそうです。カドフィセスの後のクシャーナ朝で仏教美術で有名なガンダーラ美術が発達して行くのであります。

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2009年6月18日 (木)

44年

 西暦44年、今回はまたユーラシア大陸の東に戻り、朝鮮半島の根本、高句麗の話題であります。大武神王が崩御し、第4代王に解色朱(ヘセクジュ)が即位しました。

 紀元前19年に朱蒙が崩御し東明聖王(トンミョンソンワン)と名付けられた後、長男の類利が後を継ぎました。紀元前9年には北方騎馬民族の鮮卑(せんぴ)を討ち属国としました。その後、扶余(ぶよ)と対立し、西暦13に扶余の攻撃を受けました。このとき類利の三男の無恤(ムフュル)が扶余を撃退したのであります。翌西暦14年に無恤を太子として軍事に就かせ、領土を広げて行きました。

 西暦18年に類利が崩御し、瑠璃明王(ユリミョンワン)と諡(おくりな)されました。後を継いだ無恤は、西暦22年に扶余へ侵攻し、帯素王の首を取ったのであります。西暦26年には近隣の蓋馬国を征伐し、これに恐れをなした句茶国が投降してきました。西暦28年に、後漢から攻撃を受けますが、数十日に渡って籠城し漢軍を追い返しました。西暦32年には楽浪国へ侵攻し、37年には支配下に収めてしまいます。しかし、西暦44年に光武帝が支配下に治めた楽浪国に出兵し取り返されました。この後、無恤は崩御し、大武神王(テムシンワン)と諡されたのであります。

 無恤が崩御したとき、子供の解憂(ヘユウ)が幼かったため、国民が解色朱を王に推挙したのであります。解色朱は無恤の弟で、在位は短く、西暦48年に崩御し、閔中王(ミンジュンワン)と諡されました。

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2009年6月17日 (水)

43年

 西暦43年、第四代ローマ皇帝クラウディウスはブルタニア遠征を行い、属州ブルタニアが成立したのであります。ブルタニアとはイギリスはブリテン島の南部であります。

 カエサルがガリア戦争中の紀元前55年と54年に2度ブルタニアに遠征したのが、ローマとブリタニアの最初の接触でした。この時点でカエサルはした最初である。ただ、この遠征はガリア(フランス、ベルギー、スイス地域)を掌握するため、ブルタニアを牽制するだけのものでした。二度のブルタニア遠征で二度、ブルタニア軍に勝っても、すぐにガリアに引き返したのです。

 西暦40年になってカリグラがブリタニア遠征を考えました。しかしこれはその後のカリグラ暗殺で実行されなかったのです。そして親衛隊により皇帝に担ぎ出されたクラウディウスがブルタニア遠征を引き継ぎ実行することになったのです。クラウディウスの生まれ付き吃音や片足を引きずったりする障害をかかえていたので、47歳にして初めて元老院議員になるまで目立たない存在で政治手腕もなかったのです。そんなクラウディウスでしたが、歴史は勉強していたので歴代皇帝の政治手法を学んで実践したと思われます。皇帝になってすぐにやったことは、まずカリグラ暗殺者を処刑し、財政を立て直すことでした。

 このブルタニア遠征は4個軍団約4万人のローマ軍が駆り出され、カトゥウェッラウニ族の王カラタクスに率いられたブリトン人部族連合を破りました。ついでクラウディウス自身による援軍が到着し、カトゥウェッラウニ族の都であるカムロドゥヌム(現コルチェスター)を占領したのであります。これをもってクラウディウスは属州設置宣言を行い、属州ブリタニアが誕生したのでした。占領当時はカムロドゥヌムを含むブリテン島の南東部だけを支配下においていたのですが、それからも北部、西部、南西部に軍を展開し、抵抗する部族を平定しながら領土を拡大して行きました。ローマ帝国の支配は、西暦407年にコンスタンティヌス3世がブリタニアを離れるまで続くのであります。

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2009年6月16日 (火)

42年

 西暦42年、韓国南部の金官加羅国の初代王となる首露王(スロワン)が誕生しました。首露王な韓国最大の氏族とされる金海金氏(きんかいきんし)の始祖であります。

 当時の韓国南部金海地方の一帯は、漁業で生活を営む多くの部族がいました。既に新羅や百済が建国されており、これらの国から金海地方を狙った侵攻が度々起こっていました。そこで、西暦42年3月3日、首長達が亀旨峰(クジボン)で指導者を求める祭儀を行ったのであります。すると、天から赤い風呂敷に包まれた金の箱が舞い降りて来ました。その金の箱の中には6つの金の卵があり、一番先に生まれた男の子を首露と名付け王に迎えたのであります。また、このとき他の5つの金の卵も全て孵化し、6人とも王子として首露王を中心とした六加耶連合が成立しました。

 首露王が治めた国は金官加羅国ですが、魏志倭人伝によれば狗邪韓国(くやかんこく)と呼ばれています。首露王はインドの阿踰陀(あゆた)国の王女、許黄玉(ホファンオク)を妃と娶(めと)りました。許黄玉は金海許氏の始祖と伝えられています。首露王は生まれてすぐ金官加羅国を建国し、崩御する西暦199年3月20日の158年間に渡って治世したと言われています。金官加羅国は西暦562年に新羅に併合されるまで、520年間続くことになります。

 狗邪韓国は西暦392年頃から任那(みなま)と呼ばれ、日本と深い関係ができて行くのであります。首露王の墓は首露王陵として、今でも韓国の釜山に祀られています。首露王誕生の神話は日本神話の天孫降臨との類似点があり、亀旨峰(クジボン)も古事記に登場する久士布流岳(くじふるだけ)と似ています。日本の歴史の原点が韓国に関係しているように感じます。釜山までは飛行機でたった1時間。フェリーで行くこともできます。釜山の高台に登れば、霞のないときは対馬が臨めます。韓国は隣国と歴史の勉強をしていても実感できてしまいます。

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2009年6月15日 (月)

41年

 西暦41年、遂にローマ帝国で暴君カリグラが、親衛隊士官カエレアとサビヌスに暗殺されました。カリグラ29歳のことでありました。第4代皇帝には、50歳になる伯父クラウディウスが就任しました。今夜は暗殺されるに至ったカリグラの毒蛇ぶりを見てみましょう。

 ティベリウスの緊縮財政に対して、カリグラは人気取りも兼ねてばら巻き政策を取りました。政策だけではなく、実際に貨幣を市民にばら巻いたこともあるほどです。それに加え、建設事業に力を入れました。著名なものだけでも、アウグストゥス神殿、ポンペイ劇場、クラウディア水道、 新アニオ水道等を建築し、宮殿、神殿や城壁の修復、増築があります。その他にも、新しい道路も敷き、新しい都市の計画等も行いました。また、見世物のために船を何艘も並べてその上に橋を置く浮き桟橋を造ったりもしました。

 こんなことをしていては、すぐ財政難になります。まずは個人資産を押収するため、無実の人々を不当に起訴し始めます。また、結婚や訴訟に課税し、市民に資金貸与を願い出たりもしました。剣闘士の命を競売に掛けたりもしました。過去の戦争で百人隊長が略奪した戦利品は、ローマへ引き渡すよう強制もしました。見世物として浮き桟橋を愛馬インキタトゥスに跨って行進したとき、カリグラはアレクサンドロス大王の胸当てを付けていたのですが、それは墓を暴いて盗んだものでした。ちなみに、カリグラは愛馬インキタトゥスを溺愛し、インキタトゥス名でパーティを主催したり、何と執政官にしようとしたとも言われています。

 更に映画や戯曲でも取り上げられた、狂気の沙汰や性的倒錯があります。カエサルの血を引くせいか、若くしててっぺん禿げだったので、髪が豊かな者を見つければどんなときでも後頭部を禿げにしたとか、高い所からカリグラの後頭部を見れば死刑にすると言ったそうです。ガイウス・カルプルニウス・ピソの新婦を結婚式中に奪って自分の妻とし、2ヶ月後に飽きてしまい離縁したりもしています。西暦40年になる頃には、自身を神格化し始めました。公の場所を出るときに神の姿を扮装し、自己をローマ神話の主神ユピテルと称したのです。その上、元老院や貴族階級に厳しい施策を行ったので、陰謀が張り巡らされるようになったのです。元老院は暗殺の後、皇帝制を辞め共和制を復活させようとしました。しかし皇帝への忠誠からクラウディウスを担ぎ上げたのは軍部だったのです。

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2009年6月14日 (日)

40年

 西暦40年、交趾郡で徴姉妹が立ち上がりました。徴(ちょう)はベトナム語で「チュン」と言うのでチュン姉妹とも呼びます。徴姉妹は「ハイ・バ・チュン」と言うので、ハイ・バ・チュンの乱とも呼びます。徴姉妹が立ち上がったのは、南越が女系社会だったという背景があります。

 立ち上がったというのはどういうことかというと、交趾郡各県の徴税を徴側が自ら徴王を自称して行ったのです。各県の領主も徴側を支持してこれに従いました。光武帝にとって、これは重大な反逆行為に他なりません。当時54歳になる馬援(ばえん)を伏波将軍に命じて、交趾郡鎮圧に向かわせます。なお、三国志に登場する馬超は馬援の子孫であります。

 馬援は2万の兵を引き連れ、西暦42年に交趾郡入りしました。当初は悪天候や疫病の流行により行進もままならなかったのですが、いざ南越兵と交戦すると大勝しました。この戦いで徴姉妹は逃げたのでしたが、馬援軍の厳しい追討に捕まり、西暦43には洛陽に首が送られました。ここに3年間に渡る徴姉妹時代が終わるのでありました。

 徴姉妹はその後ベトナムで英雄と語り継がれ、姉妹を祀る寺院が数多く造られています。また、ハノイとホーチミンにはハイ・バー・チュン通りもあるそうです。記念パレードも行われ、ベトナムのジャンヌ・ダルクとも呼ばれます。しかし、ジャンヌ・ダルクが神の声を聞くのは1425年のこと、戦闘に臨んだのは1429年のことであります。ジャンヌ・ダルクをフランスのチュンと呼んでも良さそうなものですが、いかがなものでありましょうか。

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2009年6月13日 (土)

39年

 西暦39年、後漢が治める南の地、交趾郡(こうしぐん)で不穏な動きが起こりました。悪政に苦しむ先住民が独立しようとし始めたのです。そこは今のベトナム北部にあたります。当時までのベトナムの歴史を勉強してみましょう。

 ベトナムも中国同様に古い歴史があります。紀元前3000年には稲作が行われており、紀元前2879年には当時の王朝が陸陽王によって始まったと記録されています。伝説時代のその王朝は紀元前257年まで続きます。紀元前316年、蜀が秦に滅ぼされたときに、蜀の王子、蜀泮(しょくはん)が逃げ出した行き先がベトナムでありました。紀元前257年に甌雒(おうらく)国を興し安陽王と名乗りました。

 蜀泮の没後は、紀元前219年に秦が50万もの大群でこの嶺南地方に攻め込み、紀元前214年に平定したのであります。しかし秦の始皇帝が崩御した後の混乱時、紀元前203年から紀元前111年までの5代93年に及ぶ南越国(なんえつこく)という独立王国が生まれました。そして漢時代になって、南越王朝は2度ほど漢に朝貢しうまくやっていたのですが、紀元前112年になって5代目の王が幼少のため覇権争いが起き、それが原因で漢が武力で介入し始め紀元前111年に王国はなくなり、漢が統治することになりました。

 漢の統治後はこの地を交趾郡としました。南越時代に中国の政治制度や生産方式が導入され、文化レベルも高くなっていました。そこへやって来た太守の蘇定が悪政を行ってしまったので、各地の領主の不満は高まります。そこへ立ち上がったのが、徴側(ちょうそく)、徴弐(ちょうに)の徴姉妹だったのであります。

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2009年6月12日 (金)

38年

 西暦38年、後漢で杜詩という技術者が亡くなりました。杜詩と言えば、普通は杜甫の作品を指すのですが、後漢で活躍した杜詩こそが当時のキューポラの発明者なのであります。

 杜詩は元々、王莽の元で官吏となり、更始帝時代も引き続いて役職を得ていました。そして光武帝の時代になると、すぐに新皇帝の忠誠を誓って職業を安定させました。河南地方の長官になってから、杜詩は地元の農業を安定させるため運河の建設や堤防工事を熱心に行いました。そのおかげで地元民からは熱烈に愛されたのであります。

 ここで彼の挙げた功績は、水力を利用したキューポラを造ったことであります。このキューポラにより、かなりの人手が不要となって生産性があがり農業に手を回すことができたのです。彼が考えたメカニズムは、水路で水車を回し、その回転する力をピストン運動で往復運動に変換しました。その往復運動で風を送り鞴(ふいご)としました。これがない時代は人力で風を起こしていたのです。鉄造りの労力が比べ物にならないくらい効率化されたのです。

 杜詩は病死してしまうのですが、亡くなったときには無一文でした。そのため葬式をあげることができなかったのですが、それを光武帝が聞きつけ立派な葬儀を挙行したのであります。ヨーロッパで水車が使われ出すのは2世紀からですので、その100年前から水車を鞴に使うとは中国の技術力の高さがよくわかります。

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2009年6月11日 (木)

37年

 西暦37年、ティベリウスが77歳で崩御しました。先代皇帝アウグストゥスは死後神格化されたのに、ティベリウスの訃報はローマ市民に歓呼をもって迎えられたたのであります。

 セイヤヌスの処刑後に、その一派の粛清が始まりました。このときになって初めて小ドルススが毒薬で暗殺されたことが判明したのでした。ティベリウスは側近に裏切られたこと等も知り、以前にも増して疑心暗鬼を深めたのであります。しかし、このセイヤヌス断罪は、カプリ島から出ずに行われたことで、強大な力を握っている相手に対してもさすが皇帝は違うということになり、元首の権威は圧倒的なものになったのであります。

 セイヤヌスがいなくなってからも、ティベリウスはカプリ島を離れることはありませんでした。皇帝が不在と思ってパルティアが不穏な動きを見せれば、適任者を派遣しパルティアを押さえる名指揮ぶりを示し続けました。ただ、カプリ島に籠もりっきりで女性も傍に置いていないようだったので、世間では少年相手の男色家だのと良からぬ噂も立ちました。そんな中で、ティベリウスは二人の若者を引き取り教育したのであります。その二人とは、ゲルマニクスの遺児ガイウスと、テベリウスの孫ゲメルスでした。この二人が次期皇帝候補だったのです。ティベリウスの目的とは彼らを立派な皇帝に育てたいというより、彼らをダメ皇帝にしてローマに復讐しようとしていたのです。

 ティベリウスは、ローマのために毒蛇を育てていると言ったそうであります。皇帝は自分の人生を好きにさせてくれなかったカエサル王朝を潰したかったのでありましょう。ティベリウスが亡くなったのは、ガイウスの暗殺ではないかとも言われています。そして4代目皇帝に即位したガイウスの無茶ぶりを見れば、彼は立派な毒蛇となったのがわかります。ティベリウスの目的は達せられたのであります。

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2009年6月10日 (水)

36年

 西暦36年、夏の夜空を彩るペルセウス座流星群が、人類史上初めて中国で記録されました。そしてこの地この年、光武帝は公孫述を打ち破り全国制覇を成し遂げたのであります。

 王莽の没後、乱立した地方王朝も整理されて行き、光武帝の前に立ちはだかるのは、蜀の公孫述だけとなりました。隗囂と共に公孫述を討つ予定が、隗囂を滅ぼすことになってしまいました。

 漢軍の来歙が隗囂の息子、隗純を捕えて隴西を制覇した後、蓋延(こうえん)、馬成(ばせい)、劉尚(りゅうしょう)等の武将を引き連れて、いよいよ公孫述を目指します。また、岑彭(しんほう)、呉漢(ごかん)、臧宮(ぞうきゅう)等も別ルートの長江(ちょうこう)沿いに進軍し蜀へ侵入しました。これに対し、公孫述は刺客を送り来歙と岑彭をそれぞれ暗殺してしまいます。しかし、本拠地成都に攻め込まれて、公孫述は破られ、成都の開城となったのでありました。

 満天の星空を巡るペルセウス座流星群を見た光武帝は、全国統一の吉兆と見たのでしょうか。そして、府中に龍が現れたので元号を龍興にした公孫述は、龍が散っていくさまと見たのでありましょうか。小生は成都を仕事で訪問したことがありますが、こんな歴史を知っていたら見方もまた変わっていたのではないかと思われます。成都ののんびりした雰囲気をただ好ましく感じただけだったのですが、今ならそれは長い歴史の積み重ねた結果なのだと思えるのであります。

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2009年6月 9日 (火)

35年

 西暦35年、アジアとローマの間、イラン高原のパルティアをティリダテス3世が進軍し王を宣言しました。

 ティリデタス3世はフラーテス4世の孫にあたります。フラーテス4世と言えば、妻ムサに毒殺されたのでした。ムサは息子のフラーテス5世を王にして、自分は息子の妻になって王妃になるという無茶ぶりでしたが、貴族の反発にあい殺害されてしまったのでした。それからオロデス3世が王になりすぐ引きずり落とされ、直系からとヴァネノス1世が王になりました。しかしローマで育ったヴァネノスはローマの傀儡と見なされ、西暦12年に王座を追われました。

 ヴァネノス1世の後は、アルタバヌス2世が王位を奪います。属国アルメニア王国のゼノンが崩御した際、アルタバヌス2世は息子のアルサケスを王位に就かせたつかせたのです。こんなことをすれば、アルメニア国内の反発を買うのは必至であります。アルメニアの反パルティア派はローマに支援を求めました。ローマは東グルジアにあったイベリア王国を焚き付け、アルメニアを攻撃させました。アルサケスは殺害され、パルティア軍を放逐してしまい、パルティアにも反アルタバヌスの機運を高めました。そして、ここへフラーテス4世時代に人質としてローマに送られていたヴァネノス1世の甥ティリダテス3世を王として派遣したのでした。

 パルティアにいれなくなったアルタバヌス2世はヒルカニアへ逃げ勝機を窺うことになりました。ティリダテス3世は叔父ヴァネノス1世と同じくローマ育ちです。当然のことながら親ローマ政策を取り、これまたデジャビューが如くパルティア貴族が反発します。大貴族のダーハ氏族がアルタバヌス2世に軍事援助を行い復活させたのでした。ティリデタス3世は元気一杯のアルタバヌス2世の攻撃にシリアに逃げ出してしまいました。

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2009年6月 8日 (月)

34年

 西暦34年、隗囂の死後、部下の王元、周宗(しゅうそう)や高峻(こうしゅん)が子の隗純を後継者に擁立し、公孫述の援軍を受けて光武帝に抵抗しました。しかし10月の攻撃に耐えきれなくなり、隗純は降伏しました。王元は蜀へ逃げ、公孫述から将軍に任命されました。これで漢復の世はなくなり、光武帝の前に立ちはだかるのは公孫述だけとなったのであります。

 隗純は漢軍に抵抗していましたが、夏に公孫述の援軍の武将、趙匡(ちょうきょう)が漢軍の馮異(ふうい)に破れました。しかしその後光武帝自ら遠征したのですが、高峻を破ることができず、寇恂(こうじゅん)を第一城に派遣しました。寇恂は高峻に降伏を促したのですが、高峻の返事が無礼であると使者の皇甫文を斬り殺してしまいます。それに恐れた高峻はあっさりと降伏してしまいました。寇恂は外交の名手と言われていました。

 そして10月、隗純は漢軍の来歙(らいきゅう)に大敗し、周宗らと共に全面降伏したのであります。ただ、王元のみが蜀の公孫述の下へ逃れ去りました。王元は蜀で将軍に任命された後、来歙と戦うのですが敗北しています。その後も負けが込み、最終的に漢に降伏したのであります。

 こうして光武帝は隴西(ろうせい)を平定しました。光武帝は降伏した敵側を殺すことはなく、相当の待遇を施しました。王元は漢でも蔡県令や東平国相を歴任しています。隗純は賓客としての処遇を受けていたのですが、西暦42年に漢を逃亡しております。その後、胡族と関係し武威郡まで逃げたのですが、結局捕まってしまい誅されてしまったのであります。

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2009年6月 7日 (日)

33年

 西暦33年、漢復の世を起こした隗囂(かいごう)が亡くなりました。今夜は光武帝の前に立ちはだかった群雄の一人、隗囂の足跡を辿ってみましょう。

 西暦23年に漢復を起こしてから翌年、更始帝から叔父の隗崔と兄の隗義と共に長安への招待状が届きます。何をされるかもわからないのに3人で行ってみると、隗囂は更始帝から右将軍に任命されました。更始帝にとっては、隗囂の国は当然支配下にあるというところなのでしょう。その年、赤眉軍が関中に入ると隗崔と隗義が故郷に戻ろうとしました、隗囂は身内の行為を更始帝に連絡し、そのため隗崔と隗義は誅殺されてしまいます。更始帝はその忠義を誉め讃え、隗囂に皇帝の側近の筆頭となる御史大夫(ぎょしたいふ)を任命したのであります。

 西暦25年になって、赤眉軍に光武帝が即位したと聞いた隗囂は更始帝もいよいよ危なくなって来たと思ったのでしょう、更始帝を脅かして天水へ帰ろうと画策しました。しかしそれがばれてしまって捕らわれそうになるのですが、何とか長安を逃れます。天水へ戻ってから隗囂は西州上将軍を自称しました。更始が滅亡すると沢山の名士が隗囂を頼って来ました。これで光武帝に対する強大な抵抗勢力となったのです。光武帝の建武の世となると、光武帝は隗囂を対等の国として接してきました。

 隗囂自身は天下統一を望んでおらず、光武帝と公孫述を両立させ自分も生きようと天下三分の計を狙っていたようです。そのため光武帝が協力して公孫述を攻めようという誘いに、あれやこれやと理由を付けて断り続けます。光武帝もその意図がわかってきて、次第に隗囂を冷遇し始めました。そして、光武帝が蜀侵攻のさい反旗を翻し、今度は公孫述に服従の使者を送ったのであります。この状況で漢軍に攻め込まれ始め、部下はどんどん光武帝に投降して行くのですが、降伏勧告を拒否し続けます。3ヶ月ほど追い込まれて包囲されているところへ、部下の王元が連れてきた公孫述の救援軍のおかげで逃げ出すことができました。西暦33年の春、城内の食料が尽き飢えた隗囂は、城外に出て食料を探しました。糒(ほしいい)を見つけ食べたのですが余りの落ちぶれようにわが身を嘆き、そしてあまりの怒りのため死去してしまったのであります。

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2009年6月 6日 (土)

32年

 西暦32年、復活したイエスから「わたしの羊を飼いなさい」と言われたペトロがローマで布教を始めました。カトリックでは、天国の鍵をイエスから受け取ったペトロを初代ローマ教皇としていますので、この年に初代ローマ教皇がカトリック教会を開始したと見ることができます。

 ペトロは漁師でした。弟アンドレとガリラヤ湖畔で漁をしているとき、イエスに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。信心深かったペトロは弟二人とすぐイエスに従い一番弟子となったのです。本名はシモンだったのですが、イエスにはアラム語で岩という意味のケファと呼ばれていました。そのため、後世ではギリシャ語で岩のペトロと呼ばれるようになります。なお、イエスと弟子達はアラム語を使っていのたですが、新約聖書がギリシャ語で書かれ、パウロがギリシャ語話者であったので地中海全体に広がったのであります。

 イエスが捕らわれたときペトロは逃げ出してしまうのですが、再び立ち直ってイエスの墓をを訪れました。このときがイエス復活のときだったのですが、ヤコブ、ヨハネとペトロの3人だけがこのイエスの変容の目撃者なのでした。イエスの意志を受け継ぎ布教活動に入ったペトロは、エルサレムを離れ妻と共に各地の教会を巡回しました。パレスチナ北部に駐在していたローマ帝国軍の百人隊長コルネリウスは、夢でペトロを自宅に招くよう告げられます。ペトロがイエスについて語ったところ、何とコルネリウスの上に聖霊が下ったのであります。ペトロはユダヤ人以外に聖霊が下ることを驚きました。これは、キリスト教がユダヤ教の一派という枠組みを超え世界宗教へと変容していく第一歩と言えましょう。

 ペドロが迫害が厳しくなったローマからアッピア街道を逃げていると、イエスが向こうから歩いて来るではありませんか。ペトロが「主よ、どこへいかれるのですか(Domine, quo vadisクォ・ヴァディス)?」と問うと、イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ行こう。」と答えました。ペトロはそれを聞いて自分の使命を悟り、ローマへ戻って殉教したのでした。しかもイエスと同じ十字架では恐れ多いと、進んで十字架に逆さまにはりつけられたと言われています。ペトロが処刑された場所には、後にサン・ピエトロ大聖堂が建てられました。ちなみに「ペトロ」は、英語ではピーター、フランス語ではピエール、ドイツ語だとペーター、スペイン語のペドロ、またロシア語ではピョートル、そしてイタリア語でピエトロと発音されます。

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2009年6月 5日 (金)

31年

 西暦31年、遂にルキウス・アエリウス・セイヤヌスが処刑されました。実はセイヤヌスの悪事をティベリウスはお見通しだったのです。

 ティベリウスがカリブ島に隠居してから、セイヤヌスは皇帝候補を攻撃することにしました。標的はアウグストゥスの血を引くゲルマニクス一族のネロ・カエサルとドルスス・カエサルです。なおドルスス・カエサルはセイヤヌスが毒殺したティベリウスの実子ドルススとは別人であります。区別するため、ティベリウスの実子ドルススは小ドルススと呼ばれます。

 今度の作戦は毒薬を使わず、ティベリウスの心理を利用しました。ティベリウスはネロとドルススの母親、大アグリッピナと仲が悪かったのです。そして、兄を良く思っていなかった弟のドルススを抱き込みました。ネロの妻ユリアはリウィッラの娘でした。セイヤヌスが口説いて夫を毒殺したリウィッラです。ネロがセイヤヌスの悪口を言おうものなら、妻の母親を通してセイヤヌスには筒抜けだったのです。これを利用し、セイヤヌスは大アグリッピナとネロを謀反の嫌疑で罠にはめることに成功しました。そして島流しの刑に処してしまったのです。ドルススはどうしたかというと、またもや彼の妻アエミリア・レピダに言い寄りドルススを罠にはめ、パラティヌス宮殿に幽閉してしまいました。こうして対立者を全て排除し、セイヤヌスは絶頂期を迎えたのであります。

 天網恢々疎にして漏らさずとでも言いましょうか、ここでアントニアが登場して来るのであります。アントニアはアウグストゥスと覇権を争ったアントニウスの娘で、ゲルマニクスの母親です。嫁や孫達が破滅していく中、ゲルマニクスの三男ガイウスを預かる身としては、この孫に悪の手が伸びて来るのは絶えられなかったことでしょう。彼女はティベリウスにセイヤヌスが陰謀を企てていると告げたのであります。ティベリウスは元老院に書簡を送りました。コンスルがセイヤヌスの前で朗読を始めました。書簡はセイヤヌスに護民官職権を与えるものということだったのですが、その内容は徐々にセイヤヌスを責めるものになって行き、最後でとうとう彼を弾劾したのであります。セイヤヌスは拘束され、その日のうちに処刑されてしまいました。

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2009年6月 4日 (木)

30年

 西暦30年はイエスの没年になります。今夜は20億人もが信仰しているといわれるキリスト教の源となったイエスの生涯を簡単に勉強しましょう。

 イエスは紀元前7年から4年頃、パレスチナの北部ガリラヤのナザレで、父ヨセフと母マリアの間に生まれました。兄弟姉妹もいるのですが、イエスはヨセフとマリアが婚約しているときに精霊から授かったのであります。少年時代はあまりの聡明さに教師も驚くほどだったと言われています。やがてヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、弟子達と宣教活動を始めました。

 イエスは民衆の病を癒し、悪魔払いを行い貧困層から大いなる支持を得ました。しかし、ユダヤ教の伝統的な教えからは外れていたため、ユダヤ教の指導者達の反感を買ったのです。わずか2年余りの活動の後、弟子のユダに裏切られ、ユダヤの最高法院サンヘドリンに逮捕され涜神(とくしん)の罪で死刑の判決を受けました。ローマ統治下のユダヤ人は死刑執行権を持たなかったので、イエスをローマの総督ポンティウス・ピラトゥスに反ローマ運動の指導者として引き渡し死刑を求刑しました。ピラトゥスはイエスがその罪に相当するとは思わなかったのですが、ユダヤ人の声に負けて反ローマの僭称(せんしょう)者としました。そしてエルサレム郊外のゴルゴダの丘で十字架にはり付け処刑したのであります。

 時のローマ皇帝はティベリウスであります。イエスは「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」と言ったといわれますが、このカエサルとはティベリウスのことだったのです。処刑後、イエスの遺体は岩窟式の墓に葬られました。三日後に遺体が消え、弟子達の前に姿を現し天にむかって昇って行かれたのでした。その後、弟子達はユダヤ教の一派として教団を維持しました。その中の信者パウロがイエスの教えを異邦人に伝道し、その結果地中海世界全域にキリスト教として広がって行ったのです。ナザレのイエスは、救世主イエス・キリストとして知られるようになったのであります。

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2009年6月 3日 (水)

29年

 西暦29年、ヨルダン川で洗礼者ヨハネがイエスから洗礼を受けました。イエスの弟子の使徒ヨハネとは別人であります。洗礼者ヨハネはイエスの誕生前から、予言者としてユダヤのヨルダン川流域で布教活動を行っていたのでありました。

 ヨハネはラクダの皮衣を着て腰には革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていました。彼の布教スタイルは改心を呼びかけ、希望者にヨルダン川で洗礼を授けるものでした。噂を聞きつけたイエスもヨハネから洗礼を受けたのであります。翌、西暦30年、イスラエルの領主ヘロデ・アンティパスは、異母兄を殺害し、その妻であったヘロディアという女性を妻にしました。ところがそれは姦淫の罪になると洗礼者ヨハネが指摘したのです。そのため、ヨハネはヘロデに捕らえられ、隠し井戸に幽閉されてしまいました。

 ヘロディアにはサロメという世にも美しい娘がおりました。宴席でヘロデは妻の連れ子サロメを見初め見つめ続けます。サロメは満月の照るテラスに逃げ出しました。すると、テラスの地下からヨハネの不気味な声が聞こえてきます。興味を持ったサロメは、若い衛兵隊長ナラボートに隠し井戸の蓋を開けさせます。ヘロデから禁じられていたのですが、妖艶なサロメの命令を断れるわけはありません。ナラボートはヨハネを井戸から出してしまったのでした。井戸から出て来たヨハネは、母ヘロディアスの姦淫罪をとがめるだけで、サロメの誘いには目もくれません。サロメが接吻を求めると、ヨハネは呪われよと言い捨て井戸に戻ってしまいました。
 
 サロメを追って来たヘロデは、彼女に踊りを命じました。初めは断っていたのですが、踊れば望みのものをやると言われ、サロメは「七つのヴェールの踊り」を披露しました。そして望みを口にしました。「ヨハネの首が欲しい」と。ヘロデは聖者を殺すことに躊躇したのですが、ヘロディアスも望んだので仕方なくそれを命じました。そして、サロメは銀の皿の上に載せられたヨハネの首を持ち上げ、接吻したのであります。フランス語で男にとって運命の女性をファム・ファタールといいます。しかし、男を破滅させる魔性の女もファム・ファタールといいます。サロメはまさしく今回の歴史ブログに登場するファム・ファタールの一人でしょう。

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2009年6月 2日 (火)

28年

 西暦28年、ユーラシア大陸の東の果て、百済(くだら)建国の初代王、温祚王(おんそおう)が崩御しました。在位46年、靺鞨(まっかつ)との戦いの歴史だったといえましょう。二代目には子供の多婁王(たるおう)が即位したのでありました。

 高句麗を建国した朱蒙(チュモン)を父に持ったのですが、異母兄の瑠璃明王が太子となったため、温祚王は朝鮮半島を南下する旅に出たのでした。現在のソウル周辺にあった馬韓国まで行ったところ、そこの王の行為で領地の一部を譲り受けたのです。これが紀元前18年。ここに百済の歴史が始まるのであります。

 当時の韓国は小国が寄り集まった妙な状況でしたが、これは漢王朝の政策であります。どんな政策かというと、小国同士が拮抗してお互いを縛り合わせることによって朝鮮半島を安定させ、朝鮮半島の北で首根っこを押さえた形の楽浪郡に各国が頼って来るようにさせることにより漢王朝の権威を示すというものだったのです。ところが、漢王朝の許可なく勝手に朝鮮半島で55カ国目となる百済を作ってしまったのです。しかもそこは、馬韓と靺鞨が領土問題でいざこざの絶えない不安定な土地だったのです。その上、百済は柵を作って人の往来を制限してしまいました。これでは諸国が自由に楽浪詣でができません。まさしく漢王朝に対する敵対行為となったのであります。

 楽浪郡の指示で靺鞨は百済に攻撃し始めました。建国直後の紀元前16、前11年、前9年、前8年、前1年、西暦22年には2回もと、温祚王の在位中に7回もの攻撃を受けました。百済はこれらの攻撃を全て撃退したのであります。百済は徐々に勢力を伸ばして行き、西暦7年には馬韓国を征服してしまいました。建国時は十済と名乗っていたのですが、百済としたのは勝ち広げていったからでありましょうか。

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2009年6月 1日 (月)

27年

 西暦27年、光武帝の国内統一に弾みがかかります。赤眉軍を降したのです。そして劉盆子は光武帝に伝国璽(でんこくじ)を報じました。これで光武帝の建武の世は、正式な中国王朝になったと言えるでしょう。

 その2年前に劉盆子が赤眉軍の皇帝になった経緯は、巫女が劉から天子を立てよと言ったからなのですが、そのとき候補は3人いたのです。それをどうやって決めたかというと、何とくじ引きだったのでありました。年齢順に引いて行き、一番若い15歳の劉盆子が当たったのです。わずか15歳で暴走する大軍団の頭領にくじ引きで担ぎ出されたのでした。

 赤眉軍は長安を攻め落とし更始帝の政権を滅ぼしたのですが、実質のリーダーの武将、樊崇(はんすう)は政治というものがわかっていませんでした。ただただ長安で略奪狼藉を繰り返し、翌年には糧食が尽きたので長安を捨て、暴走集団を引き連れ西進し始めました。安定郡で隗囂と戦ったのですが大雪もあって死者が増えたため、また東に還ることになりました。

 明けて西暦27年、光武帝の漢軍を破りながら東進を続けていたのですが、遂に洛陽の西北になる崤底という所で漢軍に大敗してしまいました。樊崇は南東の宜陽へ逃たのですが、既に宜陽は漢軍配下にあり前方が塞がれた形となります。兵糧が無くなった樊崇は上半身を脱いだ肉袒という状態になって降伏しました。嫌々皇帝をやっていた劉盆子はさぞかしホッとしたことでしょう。光武帝は劉盆子を憐れみ、叔父の劉良(りゅうりょう)に面倒を見させました。劉盆子はその後失明するのですがが、何不自由なく余生を送ったのでありました。

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