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2009年7月31日 (金)

87年

 西暦87年、ガリアの中心地リオンの人口が10万人を超えました。今夜はこれまで取り上げなかったガリアを勉強しましょう。

 当時の世界人口は2億から4億人と推定されています。現在の世界人口が60億超ですから、当時は現在の約20分の1ということになります。現在のリオンの人口が約46万人ですから、当時のリオンはかなり賑わっていたことになります。当時でも人口密度は1平方Kmあたり約2000人となり、活発な都市であったとわかります。

 元々ガリアとは、紀元前4世紀頃イタリア北部に住んでいた部族をローマ人がガリア人と呼び、そこをガリアと名付けたことに由来します。ローマ人が勢力を拡大して北上して行くと、アルプスを挟んでガリア人がいたので、ガリアが広がって行きました。最初のローマ属州となったのはアルプスの南側のガリア・キサルピナでありますが、帝政ローマが始まったアウグストゥス帝の時代にローマに編入され、ガリア地域とは呼ばれなくなりました。次に属州となったのが、アルプスの西、ガリア・トランサルピナであります。紀元前58年、カエサルがガリア・キサルピナとガリア・トランサルピナの属州総督に任官されました。カエサルはここを拠点に北上する8年間にも及ぶガリア戦争を起こします。紀元前51年にはガリアの全土を制圧し、ガリア全てをローマの属州としました。ガリア戦争で制圧した地域はケルト族、ベルガエ族、アクィタニア族の居住する地域に三分されるので、これらをそれぞれの属州としました。

 ケルト人の居住地域はガリア・ケルティカという属州にしました。現フランス北・中部に相当します。この部族は長髪が多いことからガリア・コマタとも呼ばれていました。ベルガエ人の居住地域はガリア・ベルギカという属州になりました。現フランス北部からベルギーに相当します。もちろんベルギーはベルギガに由来します。そして、アクィタニア人が居住していた地域はガリア・アクィタニアと呼ばれました。現フランス南西部に相当します。ガリアは属州の中で比較的安定し、最もローマの影響を受けた地域と言われております。4世紀にはガリア全土でラテン語が母国語となり、ローマ文化を取り入れたガロ・ローマ文化を形成しました。

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2009年7月30日 (木)

86年

 西暦86年、ローマ帝国にコロッセオが完成しました。着工したのは西暦75年のウェスパシアヌス帝でした。

 コロッセオはイタリア語で、ラテン語ではコロッセウム、英語のコロシアムであります。着工したのがフラウィウス朝の創始者ウェスパシアヌスなので、本当の名称はフラウィアヌム(フラウィウス闘技場)であります。しかし、ネロの巨大な像コロッススが傍らに立っていたので、コロッセウムと呼ばれるようになりました。コロッセオはネロの黄金宮殿ドムス・アウレアの庭にあった人工池の跡地に建設されたからであります。池を造るために既に掘り下げられていたので、水を抜けば基礎工事が簡略化できたのでした。

 西暦86年にコロッセオを完成させたのはドミティアヌス帝であります。長径188m、短径156mの楕円形で高さ48m、45000人をも収容できる大競技場が完成したのです。屋根はないのですが、日除け用の布を張ることができるようになっていました。皇帝席は直射日光が入らないように設計されており、一般席も一日に20分以上日射が入らないようになっていました。父が建築を始め、兄が継続して建築を続けてきたフラウィアヌムです。ドミティアヌスはオリンピア競技を模範としたカプリトリン競技を4年に一度開催することにしました。カプリトンでは陸上競技、戦車競走、剣闘士競技などが行われました。ドミティアヌスは特に剣闘士競技に熱を入れ、女性剣闘士や矮人剣闘士等の工夫をこらしたのでありました。

 1923年を経た今でもコロッセオはローマの象徴であり続けています。ローマ帝国滅亡後は、コロッセオの建材が他の建築物に流用されたりと破壊が進みました。コロッセオの大理石はバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂にも使われています。コロッセオが半分壊れたように見えるのはこのためです。18世紀になってベネディクトゥス14世がコロッセオを神聖な場所と宣言し、ようやく破壊が止められたのでありました。

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2009年7月29日 (水)

85年

 西暦85年、ダキアがローマ属州モエシアへ侵入を開始しました。これが後のダキア戦争に繋がるのであります。

 ダキアとは、現ルーマニアであります。ルーマニアは「Romania」と書くのですが、「ローマ人の国」を意味します。すなわち、バルカン半島において最初にローマが造った国ということになります。それはダキアがローマ属州となってからのことで、元々はダキアという国でした。

 紀元前2000年頃、この地に東ヨーロッパに住んでいたトラキア人から派生したダキア人が住み始めました。紀元前514年、ペルシア戦争で第三代ペルシア王ダレイオス1世と戦い、その勇敢さは古代ギリシャの歴史家ヘロドトスによって記録されています。その後は共和政ローマのカエサルとも戦いました。カエサルはダキアのローマ属州化を狙っていたのですが、カエサルの暗殺がダキアの自立化を保証する形となりました。そして紀元前70年、部族連合の首長ブレビスタがダキアを統一し、ローマに抵抗を続けました。

 ブレビスが崩御し王国は4つに分割されました。そのためもあってか、ダキアはローマを脅かす程ではなくなってしまいます。ところが分裂状態にあったダキアは次第に一つにまとまり、西暦85年にはデケバルスを中心としてローマ属州モエシアへ侵入するまでになります。モエシアとは、ダキアの南側、現セルビアとブルガリア地域に当たります。デケバルスは翌西暦86年にダキア王に即位します。そして、西暦87年には、何とドミティアヌス帝が派遣した2個軍団ともを打ち破ってしまうのであります。

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2009年7月28日 (火)

84年

 西暦84年、ブルタニア北部でイケニ族の女王ブーディカの反乱に匹敵する規模の反乱が起きました。カレドニア人が蜂起したモンス・グラウピウスの戦いが起きたのです。

 西暦78年、グナエウス・ユリウス・アグリコラはブリタニア総督として、カレドニア人を追討するためブリタニア北部へと赴きました。そして、カレドニア人を最北部へと追い詰めました。そこはカレドニア人が支配するグラウピウス山でありました。

 ローマ軍はグラウビウス山からカレドニア人をおびき出し、野戦で戦おうとしました。しかし彼らは策に乗らず、戦いを避けたのであります。そこでローマ軍はカレドニア人の食糧庫を襲撃し占領しました。これから冬を迎える時期に食糧庫を占領されたのでは仕方ありません。カレドニア人はローマ軍との戦いに応じました。彼らの反乱はローマ軍が仕掛けたものだったのです。カレドニア側は
カルガクスを大将としました。カルガクスは女性のブーディカでさへローマ軍を破ったことがあるのだから頑張ろうとカレドニア兵を鼓舞したのであります。

 カレドニア軍はローマ軍の2万人に対し、3万人と数の上では上回っていました。ところが戦闘を開始すると、ローマの圧勝に終わりました。カレドニア側が1万人も犠牲者を出したのに、ローマはわずか360人の犠牲しか出さなかったのであります。カレドニア軍の残る2万人は逃走してしまいました。この勝利の後アグリコラは、ブルタニアの全ての部族を征服したと宣言しました。翌西暦85年、アグリコラがローマへ帰ると、再びブルタニア北部の反乱が再三に渡って勃発し安定することはなかったのであります。

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2009年7月27日 (月)

83年

 西暦83年、ローマ帝国はシュヴァルツヴァルトの中にリーメス建造に着手します。シュヴァルツヴァルトとはドイツの黒い森、リーメスは長城であります。

 西暦9年、ローマ軍はトイトブルクの戦いでゲルマンに大敗します。アウグストゥスが、ウァルスよ、我が軍団を返せ!」と叫んだ戦いでありました。この敗戦により、防衛ラインはライン川まで後退しました。しかし、ライン川上流域東岸には黒い森シュヴァルツヴァルトが広がり、そこはゲルマンが得意とするゲリラ戦法の地形であります。その付近の川幅は狭く、ライン川を防衛ラインとするには不安でした。西暦83年、ローマ皇帝ドミティアヌスは、新たな軍事境界線をシュヴァルツヴァルトに築く政策を打ち出しました。これがリーメス・ゲルマニクスであります。

 リーメス建造はマイン川南岸から開始されました。開始当初、この地域に住むカッティ族との間に小競り合いが起きますが、ローマは辛勝します。この辛勝だったということが、リーメスの重要性を強調することになり建造が加速しました。こうしてマイン川南岸ヴェルトから南下し、ネッカー川沿岸バート・ヴィンプフェンに至るリーメスを築きます。こうして完成した最初のリーメスは、ネッカー・オーデンヴァルト・リーメスと呼ぶれます。リーメスは徐々に拡張されて行き、マイン川北側には高地ゲルマニア・リーメスが築かれ、ネッカー・オーデンヴァルト・リーメスの南側にはレティシャー・リームスが築かれます。ネッカー・オーデンヴァルト・リーメスはその間にも伸びて行き、最終的にリームスはハドリアヌス皇帝の時代(西暦117~138年)に全長580kmを越えるものとなりました。

 こうして建造されたリーメスは、東はドナウ川、西はライン川まで伸びるものとなりました。リーメスの構造は、長城、物見櫓、砦で構成されていました。ハドリアヌス皇帝は、ブルタニアでのケルト人の侵入に対しリーメス、ハドリアヌスの長城の建造を命じました。こちらの方が先にユネスコの世界遺産に登録されるのですが、ドイツのリーメスが後から登録され、ローマ帝国の国境線と名付けられています。

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2009年7月26日 (日)

82年

 西暦82年、大和政権は熊襲(くまそ)に対し従うよう求めたのですが拒否されました。そこで、景行天皇自ら熊襲征伐に出かけます。

 熊襲は九州中南部地域の古称で、熊(現熊本県球磨郡)と襲(現鹿児島県曽於郡)を併せたものであります。熊襲に従属命令を出したのが7月、そして天皇が九州に向かって出発したのが8月でありますから、素早い決断だったのです。

 9月には周芳(すわ:周防国のことで現山口県東部)の娑麼(さば:現防府市佐波)に到着しました。海をへだてた南方に集落があり、そこでは神夏磯媛(かむなつそひめ)という女性が一国の首長である魁帥(ひとごのかみ)として大勢の民衆を従えていました。大和政権の一団が来たと聞くと、磯津山(しつのやま)の榊(さかき)を抜き取り、上の枝に剣、中の枝に鏡、下の枝に勾玉(まがたま)をかけ、地元風の儀礼によって出迎えたのであります。神夏磯媛は大和政権に従うことを告げたのであります。しかし、鼻垂(はなたり)、耳垂(みみたり)、麻剥(あさはぎ)、土折猪折(つちおりいおい)の四人の族長は、大和政権に従いませんでした。そこでまず麻剥を誘い赤い衣服等を贈って他の三人をおびき寄せ、一同が会したところを一網打尽にしたのであります。

 こうして天皇一行はこうして筑紫(つくし:現九州)に入り、豊前国(とよのくにのみちのくちのくに:現福岡、大分県の中間部)の長峡県(ながおのあがた)に滞在しました。滞在地は天皇がいたということで京(みやこ:現福岡県京都郡)と名付けられたそうです。10月、碩田国(おおきたのくに:現大分市周辺)に向いました。速見邑(はやみのむら:現大分県速見郡)に着くと、速津媛(ひやつひめ)という女性の族長が出迎えました。速津媛の話によると、青、白、打猿(うちさる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ)の5人の土蜘蛛(つちぐも)が軍団を結集しているということでした。土蜘蛛とは大和政権に従わない非農耕集団であります。これを聞いた天皇は土蜘蛛を全滅させたのであります。11月、日向国(ひむかのくに:現九州南部)に着き滞在しました。12月、熊襲梟帥(くまそたける)という一人の族長の娘、市乾鹿文(いちふかや)、市鹿文(いちかや)という美人姉妹を贈り物で騙して呼び寄せました。そこで姉の市乾鹿文と関係を持ち、帰らせてから父を酔わせてしまいます。その隙に兵士が侵入し、熊襲梟帥を暗殺するのでありました。

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2009年7月25日 (土)

81年

 西暦81年、即位したばかりのローマ皇帝ティトゥスが崩御しました。後は弟のドミティアヌスが継ぎます。

 西暦39年、ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスはウェスパシアヌスの長男として誕生しました。当時の皇帝クラウディウスはティトゥスを息子ブリタニクスと一緒に養育していたので、彼らは仲が良かったそうです。宴会でネロにブルタニクスが毒殺された時も隣におり、不審に思ったティトゥスは毒入りの料理を少しだけ口にしました。そのおかげで長い間床に伏せたのですが、この件を皇帝になったときに口にしたと伝えられています。皇帝の権力を使ってティトゥスがやったことは、ブルタニクスの像を建てコインを発行したことであります。

 西暦61年、父ウェスパシアヌスと共にブリタニアへ赴きました。これを皮切りにティトゥスは父子コンビで遠征先で成果を上げて行きます。西暦64年に結婚しますがすぐ死別し、翌年マルシア・フルニッラと再婚したのですが、妻の実家が反ネロ派だったため、その年に起きたピソの陰謀に関係することになり、すぐ離婚しそれから結婚しませんでした。西暦67年、ユダヤ鎮圧のためパレスチナに行きました。そこで、ユダヤ王アグリッパ1世の娘、ベレニケと出会います。ベレニケはティトゥスより11歳年上でしたが、彼らは恋に落ち、ユダヤ制定後にローマで結婚しようと約束しました。

 西暦79年に父の死後ローマ皇帝に即位したのですが、ベレニケと結婚することはありませんでした。それはローマ市民がベレニケをクレオパトラの再来と受け取ってしまい、乗っ取られてしまうのではと危惧を感じたからです。市民の不安を知ったティトゥスはベレニケを諦めますが、逆にそれが市民の同情を買い支持率を上げることになりました。ティトゥスは市民の期待にもよく応え、ずっと人気が高く、後世には皇帝の理想像とも評価されています。ローマで3日間も続く大火災が発生したとき、ティトゥスは懸命に被災地の救済にあたりました。しかし、その最中に熱病で崩御してしまったのであります。わずか2年の治世でありました。

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2009年7月24日 (金)

80年

 西暦80年、朝鮮半島の新羅第四代王、脱解尼師今(タレイサグム)が崩御しました。第五代王には、第三代王の儒理尼師今(ユリイサグム)の次男、婆娑尼師今(パサイサグム)が即位しました。

 脱解尼師今が亡くなったとき、儒理尼師今の長男、逸聖(イルソン)が即位することになっていたのですが、次男の方が聡明だということで婆娑が王位を継ぐこととなりました。逸聖は一代置いて、第七代王を即位することになります。

 脱解尼師今が王となったのは西暦57年のことでありました。脱解は第2代王、南解次次雄の娘、阿孝夫人の婿でありました。姓は新羅の王族三姓と言われる朴、昔、金のうちの昔氏であります。西暦24年に紹介した様に、南解次次雄が崩御したとき、脱解と儒理が王位を競ったのでありますが、そのときは歯が多い方が王位に就くということで儒理が王になりました。そして、儒理が亡くなりその後を継いだということになります。脱解の出生も面白い逸話があります。それは、倭国の東北一千里にある多婆那国の王妃が妊娠し、7年後に卵を生むのですが不吉だと箱に入れて海に流したというものであります。それが辰韓(しんかん)まで流れ、それを見つけた老婆が箱を開けると男の子が出て来ました。箱が流れ着いた所には鵲(かささぎ)がいたので、鵲の字を略した「昔」を姓とし、箱から生まれたので「脱解」を名としたのだそうです。

 西暦64年、百済の多婁王が蛙山城(ワサンソン)を攻撃して来ました。この侵略は防ぐことが出来たのですが、南の狗壌城(クヤンソン)は奪われてしまいます。百済は執拗に蛙山城を攻めて来るので、その都度戦争をすることになりました。また、西暦73年に倭人による木出島への攻撃を受けます。西暦77年には伽耶(かや)と戦い大勝しました。倭国とは、西暦59年に通好を結び、交互に使節を往来させていたという記録があります。倭人が後漢の光武帝に貢献したのは西暦57年でありました。西暦79年に彗星が頻繁に観測されたという記録があります。これは翌年の脱解が崩御する前兆だったのでしょうか。

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2009年7月23日 (木)

79年

 西暦79年、第九代ローマ皇帝のウェスパシアヌスが崩御しました。ウェスパシアヌスはフラウィウス朝の創始者となり、自分の後の皇帝を息子のティトゥスとドミティアヌスに継がせました。

 元老院に皇帝と認められたのは西暦69年12月ですが、ウェスパシアヌスがローマ入りしたのは西暦70年になってからでした。ウェスパシアヌスが最初にやったことは、ユリウス・クラウディウス朝の皇帝たちと同じ権限を彼に付与する「ウェスパシアヌスの命令権に関する法律」を制定することでした。これで、ウェスパシアヌスは、栄光のユリウス・クラウディウス朝の皇帝達と同じ権力を保証する法的基盤を整備したことになります。しかし、従来元老院に与えられていた皇帝弾劾権を否定してしまいました。つまり皇帝の政権交代は、皇帝が崩御することだけにより行われることになったのであります。これにより、政権を変えるため皇帝を暗殺することが横行することになってしまいす。

 ウェスパシアヌス皇帝が腐心したのは、ネロが散在して、四皇帝の時代にそのままとなっていたローマ財政の建て直しでした。その政策の中で現在にも名残のあるものが有料の公衆便所です。西暦74年に始めたのですが、敵対者はせこいと嘲笑しました。これにウェスパシアヌスは「Pecunia non olet:金は臭わない」と反論しました。これは金銭に貴賎なしを意味する有名な文句となりました。現在でもヨーロッパの公衆トイレは、ウェスパシアヌスの名前で呼ばれています。

 西暦79年はローマでもう一つ歴史的な事件が起きました。それはヴェスヴィオ火山に噴火によるボンペイ市の消失であります。西暦62年の地震から復興中だったポンペイですが、8月24日にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火砕流を噴出し続け、翌日にはポンペイ市と近隣の町、スタビアエ、オプロンティス、ヘルクラネウムを埋め尽くしてしまいました。これによりボンペイ市の総人口1万人が一夜にして失われたのであります。

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2009年7月22日 (水)

78年

 西暦78年、パルティアのヴォロガセス1世が崩御しました。パルティア王は息子のヴォロガセス2世が継ぐかと思われたのですが、ヴォロガセス1世の弟、パルコス2世が王位を主張して来ました。

 パルコス2世はヴォロガセス1世により、アトロパテネ王国の王に封じられてました。アトロパテネ王国は、メディアの北部地域に作られた王国であります。アトロパテネの名は、アレクサンドロス大王の遠征開始後、同地で独立を支配した将軍アトロパテスに由来しています。パルコス2世が即位した頃はパルティア支配下の半独立国となっていました。アトロパテネ王国もご多分に漏れず、ローマとパルティアの間で支配権を巡っての戦争が繰り返されていました。パルコス2世の即位時は安定していたのですが、イラン系遊牧民アラン人の侵入が激化し、西暦71年、王座を追われてしまったのです。

 行き場を失ったパルコス2世は、兄のヴォロガセス1世が亡くなった故郷パルティアの王を名乗りました。パルティア西部を拠点に戦いを進め、遂に西暦80年にはヴォロガセス2世を追放してしまいます。ところが、同年中にアルタバヌス3世がパルティア王を名乗ってパコルス2世に敵対しました。アルタバヌス2世とヴォロガセス1世はパルティア王を争って戦った仲であります。今度はアルタバヌス3世と弟のパルコス3世が戦うことになったのです。アルタバヌス3世はメソポタミアで挙兵しました。そして、アナトリアで勢力を拡張していたネロを装うテレンティウス・マキシマスを支持することで勢力を築きコインを発行していました。しかし最終的には西暦90年頃にパコルス2世に敗れ権力の座から追われてしまうのでありました。

 パルコス2世は、やっと単独のパルティア王として君臨することができました。しかし西暦105年の崩御直前には、東部でヴォロガセス3世がパルティア王を名乗ってコインを発行するようになっていました。この時代は王の証として、肖像を刻んだコインを発行することが重要だったのです。パコルス2世が崩御した後は弟のオスロエス1世に引き継がれるのですが、ヴォロガセス3世との戦いも引き継ぐことになったのであります。

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2009年7月21日 (火)

77年

 西暦77年、百済の第二代王、多婁王(タルワン)が崩御しました。後は嫡男の己婁王(キルワン)が継ぎます。

 多婁王は温祚王の嫡男として生まれ、器量は大きく性格は寬厚に育ちました。西暦10年に立太子となり、西暦28年に王に即位しました。即位当初から先代と同じく靺鞨(まっかつ)との戦いが続きます。西暦30、31年の靺鞨との戦いには大勝しました。

 西暦33年には国内で初めて畑を作らせ、食料の安定供給に努めます。その後、靺鞨の侵入で畑が荒らされ不作となり、西暦38年には私酒造を禁じました。

 西暦55年頃から靺鞨に攻め込まれることが多くなり、西暦56年には牛谷城(ウゴクソン)を建立し攻撃に備えることにしました。西暦63年、東方では国土を娘子谷城(ナンジャゴクソン:現忠清北道清原郡)まで拡大しました。そして、新羅に会見を申し入れたのですが受け容れられず、翌西暦64年に新羅の蛙山城(ワサンソン:現忠清北道報恩郡)を攻撃します。蛙山城を陥落することができなかったので、戦場を南の狗壌城(クヤンソン:現忠清北道沃川郡)に移し新羅に勝つことができました。これ以後、蛙山城を新羅と奪い合いますが、在位50年の西暦77年9月、蛙山城を新羅に奪回されたまま多婁王は崩御したのであります。

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2009年7月20日 (月)

76年

西暦76年、明帝の永平を継ぎ、劉炟(りゅうたつ)が建初(けんしょ)の世を治世します。劉炟は明帝の五男でした。

 3歳で皇太子となった劉炟は、19歳で皇帝に即位しました。明帝は寛容で儒術を好む劉炟を若い頃から見込んでいました。義理の母、馬皇后を皇太后に立てるのですが、馬皇后は明帝の意思を継ぎ馬氏一族が高位に取り立てられることを頑なに拒みなした。

 即位した西暦75年11月、日蝕が起こります。当時の日蝕は為政者に不吉を予感させたのでしょう。劉炟は西域戦線を停止させ、班超に帰還命令が出しました。班超が征服した地域の諸王達は、漢軍が引き上げれば匈奴が戻って来て漢に味方したと見られ皆殺しにされてしまうと班超に泣きついたのであります。そして、班超は残る事を決意したのであります。班超はその後も西域を治め、やがて朝廷から西域都護に任じられるまでになります。

 この時代で興味深いことが、漢がローマを意識していたことであります。シルクロードを通して、東西の物資は既に交流していました。また、西域の騎馬民族はパルティアから流れて来た部族もいましたし、漢の西域進出で匈奴と戦い始めた漢軍の将校らは遥か西のローマは常識だったかも知れません。漢の戦法は当時既に孫子の兵法を参考にしていました。孫子の兵法は紀元前515年に書かれたものであります。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という有名な情報処理戦略は当時も実践されていたことでしょう。西暦97年、班超は部下の甘英(かんえい)を使者として大秦(だいしん)に派遣したいました。甘英は大秦まで辿り着くことはなかったのですが、シリアまで到達した後漢書に記録されています。大秦とは後漢書に記されたローマ帝国であります。

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2009年7月19日 (日)

75年

 西暦75年、後漢の劉荘が崩御し、諡号(しごう)は明帝と名付けられました。まだ47歳になる年のことでした。

 劉荘は光武帝の四男として生まれました。十歳にして春秋を通暁(つうぎょう)して光武帝を驚かせました。15歳で皇太子になるのですが、それでも書経をよく勉強していました。光武帝が崩御し、30歳で皇帝となりました。

 劉荘の治世は基本的に光武帝の方針を継続していましたが、外交面は消極策ではなく積極策を取りました。劉荘が直接指示したのは、内政では産業の振興を図り辺境の飢えに手を打てというものであり、外交面では異民族を懐けよというものでした。これにより、武帝以来となる西域への進出を再開し、班超(はんちょう)が活躍することになりました。現新疆ウイグル自治区(しんきょうウイグルじちく)にかつて存在した 楼蘭(ろうらん )に班超が使者として行った時のことであります。最初は歓迎されていたのですが、匈奴がやって来ました。楼蘭側は匈奴に漢と繋がりを持っていると思われるとまずいので、班超に対しての態度が厳しくなって来ました。この状況を打開するため、おびえている部下達に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と勇気付け、匈奴の一団に切り込む奇襲をかけ、見事に蹴散らしてしまいました。班超らはたった36人しかおらず、匈奴側ははるかに多い軍団でした。このような活躍で、班超は西域の南部を漢の支配下に置きました。

 また、明帝の時代に仏教が漢に伝来しました。明帝の治世により後漢は安定期に入りました。明帝は裁判は公平に刑は緩めにと、内政の安定と人口の増加に腐心していました。政局が安定したのは、この様な政治姿勢だけではなく、外戚(がいせき)勢力を抑制したことにもよります。例えば、妹が自分の子供に職位をくれと言っても聞き入れなかったほどでした。そして、朝から晩まで朝廷でテキパキと指示や裁判を行っていました。罰を軽減し疑わしきは罰するなという方針で、犯罪者は前漢時代の2割にまで減らしました。崩御前には、質素な埋葬と葬式を命じていたと言われます。光武帝と明帝の政治はその後の模範とされたのであります。

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2009年7月18日 (土)

74年

 西暦74年、戻って大和の国、景行天皇が美濃(みの:現岐阜県南部)に出かけ、泳宮(くくりのみや:現岐阜県可児市)に滞在したときの話であります。現地で八坂入媛命(やさかのいりびめ)を側室とします。

 美濃には、八坂入彦(やさかのいりびこ)皇子の娘の弟媛(おとひめ)がいました。八坂入彦皇子は第10代崇神(すじん)天皇の子供で美濃を地盤としていました。弟媛は評判の美少女だったので、天皇が会いに行ったのですが竹林に隠れてしまいました。どうしても会いたかったので、天皇は泳宮に滞在します。誘き寄せるため池に鯉を放つのですが、数日後まんまと罠にかかりに弟媛が現れます。天皇はその時を出会いの場とすることができました。しかし、弟媛は自分より姉の八坂入媛命の方が、美人で天皇に相応しいと言い始めました。弟媛にふられたと悟り、天皇は八坂入媛命を側室としました。

 八坂入媛命とは夫婦仲がよく、七男六女をもうけました。長男を稚足彦(わかたらしひこ)、次男を五百城入彦(いおきいりびこ)、三男を忍之別(おしのわけ)、四男を稚倭根子(わかやまとねこ)、五男を大酢別(おおすわけ)、長女を渟熨斗(ぬしの)、次女を渟名城(ぬなき)、三女を五百城入姫(いおきりびめ)、四女を鹿依姫(かごよりひめ)、六男を五十狭城入彦(いさきいりびこ)、七男を吉備兄彦(きびのえひこ)、五女を高城入姫(たかきいりびめ)、六女を弟姫(おとひめ)と名付けました。天皇には先の皇后との間にも子供がいましたし、その他の多くの側室とも子供をもうけ、合計して何と80人もの子供がいたのであります。その子らのうち日本武尊、稚足彦、五百城入彦の3人だけを残し、あとの子たちを地方に分封しその地に住まわせました。

 また、天皇は美濃国造(みののくにのみやつこ)の神骨(かむぼね)の娘、兄遠子(えとおこ)、弟遠子(おととおこ)が美人姉妹と聞き、息子の大碓皇子に様子を見に行かせました。すると、大碓皇子が姉妹を気に入ってしまい自分の側室にしてしまいました。このせいで、天皇と大碓皇子の親子仲が冷え切ってしまいました。ローマではやっとユダヤ戦争が終結し、後漢では劉荘の西域積極策により竇固(とうこ)を北匈奴遠征に向かわせ、班超(はんちょう)が虎穴に入らずんば虎子を得ずと言って部下を勇気付け、敵に切り込んでいた時代であります。大和の国は平和でありました。

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2009年7月17日 (金)

73年

 西暦73年、イスラエル東部の死海西岸にあるマサダが陥落し、66年から続いたローマ帝国とのユダヤ戦争が終結しました。ユダヤが勝利したのは緒戦のみでありました。

 反乱が全土に広がるのを見たネロは、将軍ウェスパシアヌスに三個軍団を与えユダヤに向かわせました。ウェスパシアヌスは息子ティトゥスと共に、まずエルサレム周辺の都市を攻略します。次々とユダヤ軍を撃破してサマリアやガリラヤを平定し、エルサレムを孤立化させました。しかし、西暦68年、ネロが自殺し、69年の皇帝乱立でローマが大混乱に陥るのを見て、ウェスパシアヌスはエルサレム攻略を目前にローマへ帰ります。このためユダヤ戦線はこう着状態となりました。

 ローマ皇帝としてローマに凱旋したウェスパシアヌスは、ティトゥスをエルサレムに向かわせます。西暦70年、ユダヤ人たちの必至の抵抗も圧倒的なローマ軍の前に敗北し、エルサレム神殿は炎上しました。ティトゥスはローマに凱旋し、このとき造られたのがティトゥスの凱旋門であります。既にユダヤ戦争の勝敗は着いているのですが、約1000人のユダヤ人がマサダに籠城します。

 マサダはヘブライ語で要塞という意味で、紀元前120年に建設された要塞です。ヘロデ大王が離宮兼要塞として改修し、難攻不落と言われていました。ここに2年以上も籠もって抵抗したのですが、兵糧攻めにより、西暦73年に攻め落とされました。陥落直前に、ユダヤ人たちは投降してローマの奴隷になるよりはと、2人の女性と5人の子供だけを残し、あと全員が集団自決したと言われています。これによってユダヤ戦争は完全に終結した。マサダはこのときローマ軍により破壊されたので、その所在がわからなくなっていたのですが1838年に発見され、現在は世界文化遺産に登録されています。また、ユダヤ人全滅の悲劇を再び繰り返すまじと、イスラエル国防軍の入隊式がここマサダで行われているのであります。

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2009年7月16日 (木)

72年

 西暦72年、ローマ皇帝ウェスパシアヌスはコンマゲネ王国を属州化しました。これで234年に及ぶコンマゲネ王国は終焉したのであります。

 コンマゲネは、現トルコ共和国の南東部のシリアとの国境沿いに位置しました。紀元前6世紀のアッシリア滅亡まで同盟国でしたが、その後は近隣大国がメディア、ペルシャと入れ替わるたびにその支配下に置かれました。紀元前4世紀にはシリアの州に組み込まれました。

 紀元前162年、コンマゲネを統治していたプトレマエウスは、シリアが弱体化していたのでパルティアを後ろ盾としコンマゲネ王国の独立を宣言したのであります。後継者のミトリダテス1世カリニカスは、ヘレニズム文化を取り入れながら、シリア王女ラオディケを妻としました。彼はヘレニズムとペルシアの両文化を承継しているとし、シリアとの繋がりを強めました。その後、カリニカスの息子アンティオコス1世が王位に就きますが、周辺諸国に対抗するため当時の共和政ローマが派遣した将軍グナエウス・ポンペイウスと同盟を結びました。この政策でローマの半属国となったものの、コンマゲネ王国の独立自体は維持することができました。

 西暦17年、アンティオコス3世が崩御したとき、ローマ皇帝ティベリウスはコンマゲネをシリア属州へ編入し王国を終わらせました。しかし、西暦38年、カリグラが王国を復活させ、アンティオコス4世を王としました。そして、地中海に面するキリキアを含む広大な地域の統治を委任したのであります。ところが、西暦69年にローマ皇帝となったウェスパシアヌスは西暦72年に再び属州化し、これ以降王国が復活することはなかったのであります。

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2009年7月15日 (水)

71年

 西暦71年、第十二代景行(けいこう)天皇が即位します。景行天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の父であります。

  紀元前13年、大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)は垂仁天皇の第三子として生まれました。母親は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)で、丹波道主(たにほあのちぬし)王の娘でした。西暦8年、皇太子(ひつぎのみこ)となりました。垂仁天皇が崩御し、翌西暦71年7月、大和の大王、天皇に即位しました。

 都を垂仁天皇と同じく、纒向日代宮(まきむくのひしろのみや:現奈良県桜井市穴師)とします。西暦72年3月、播磨(はりま)の稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)を皇后(きさき)とします。后(きさき)との間に二男をもうけます。第一子を大碓皇子(おおうすのみこ)、第二子を小碓尊(おうすのみこと)と名付けました。大碓皇子と小碓尊は双子であります。出生児、天皇は奇妙に思って碓(うす)に向って叫んだそうです。それで名前に碓を付けたそうです。小碓尊は幼い頃から腕白で、大人になると立派な体格の怪力の持ち主となり、日本武尊と呼ばれるようになります。

 景行天皇はこの後、各地に積極的に赴きその土地の豪族と婚姻政策を行うことで、大和政権の拡大を図って行きます。特に、九州まで遠征し熊襲(くまそ)の国々を初めて服属させます。また、日本武尊が活躍する東国遠征も有名であります。景行天皇も垂仁天皇に負けずと長生きですので、これらの話題はまたその年代に勉強することにしましょう。

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2009年7月14日 (火)

70年

 西暦70年、わが日本、大和の国で垂仁(すいにん)天皇が崩御しました。現在の暦では8月8日ですが、当時の暦で今日の日付、7月14日のことでありました。

 紀元前69年1月26日、第十代、崇神(すじん)天皇の第三子として活目入彦五十茅(いくめいりびこいさち)は生まれました。崇神天皇は初めて実存の可能性がある天皇と言われています。生まれつき体格にすぐれ、成長すると度量もそなわり、素直な性格で飾るところがありませんでした。崇神天皇にかわいがられいつもそばに置かれていましたが、二十四歳の時に夢の前兆によって皇太子(ひつぎのみこ)になりました。紀元前30年12月、崇神天皇が崩御し、翌紀元前29年1月、大和の大王(おおきみ)、天皇(すめらみこと)に即位したのであります。

 垂仁天皇はこの後、父、崇神天皇が確立した大和政権を発展させて行きます。西暦6年9月、子供のの五十瓊敷命(いにしきのみこと)を河内国(かわちのくに:現大阪府東部・南部)に派遣し、高石池(たかしのいけ:現大阪府高石町)と茅渟池(ちぬのいけ:泉佐野市)を作らせました。10月、倭(やまと:現奈良県)に狭城池(さきのいけ:現奈良市佐紀)と迹見池(とみのいけ:現大和郡山市)を作ったのであります。そして、諸国に命じて沢山の池や溝を掘らせ、農業を盛んにさせたと日本書紀に記されています。

 西暦61年2月、天皇は非時香菓(ときじくのかくのみ)という常によい匂いのする果実の噂を聞きます。そこで、朝鮮半島から渡って来た新羅王子の曾孫、田道間守(たじまもり)を常世国(とこよのくに)に派遣します。常世国とは、遥か遠くの地であります。この非時香菓とは、橘(たちばな)のことでありました。天皇は橘を見ることはなく、西暦70年8月、崩御します。齢140歳という長寿でありました。翌71年3月、田道間守が橘の実と樹木を持って帰って来ました。田道間守は半分を皇后に献上し、残り半分を天皇の御陵に捧げた後、泣き叫びながら亡くなったのであります。田道間守は菓子の神として兵庫県豊岡市の中嶋神社に祀られ、分霊が太宰府天満宮や京都の吉田神社など全国に祀られています。今も菓子業者の信仰を集めていると言われます。垂仁天皇陵は、近鉄橿原線の尼ヶ辻駅の近くにある全長227mにも及ぶ巨大な前方後円墳であります。

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2009年7月13日 (月)

69年

 西暦69年、ネロのいないローマは混乱し内戦状態になりました。何と1年間に皇帝が4人も入れ替わるという異常事態です。この年は「四皇帝の年」と呼ばれています。

 ネロの後を継いだガルバは失策を重ねました。ヒスパニアのタラコネンシス属州総督としては人気があったのですが、ローマから帰還するとき、ガルバを支持しなかった地域に重い罰金を課して行きました。これで地域住民の支持を失います。ローマへ帰ってからもネロの改革を無効とし、指導部の支持を失います。そして、西暦69年1月1日、報奨が少ないことに端を発したゲルマニアで低地ゲルマニア総督アウルス・ウィテリウスを皇帝に推す反乱が起きました。ガルバは人格者のピソ(ピソの陰謀のピソとは別人)を養子にし後継者と発表しましたが情勢は変わらず、逆にオトを落胆させてしまいました。オトは今まで、ガルバの後継者は自分と信じて彼を支持して来たのです。オトはこの発表の5日後にガルバとピソを暗殺して皇帝に即位したのでありました。

 1月15日に皇帝に即位したマルクス・サルウィウス・オトは、ネロに妻を譲ったオトであります。36歳と若く、ルシタニア総督時代の善政で名声もあり人気がありました。しかしゲルマニアのウィテリウス軍は既に蜂起しており、ローマへの行軍を続けていました。オト軍を構成し対戦したのですが、緒戦で敗北します。まだ兵力に余裕があり挽回の可能性があったのですが、敗戦の報を聞いたオトはあっさりと自殺してしまいました。4月15日、わずか3ヶ月間の皇帝在位でありました。しかし、多くの犠牲を避けるため素早く自死したオトに、ローマ市民は共感しました。歴史家コルネリウス・タキトゥスは、オトの死に様はカエサルよりも偉大だと著しています。

 ローマに大軍団を率いて入城したウィテリウスに誰も抵抗できません。元老院は即座にウィルテリウスを皇帝と認めました。しかし、元々ウィルテリウスは皇帝に担ぎ出されただけで、皇帝になった後の政策は一切考えていませんでした。ウィルテリウスが制定した法律は一切なく、記録として残ったのは膨大な食費だけでした。また、ゲルマニア兵の素行が悪く、市内の治安が悪化しました。そして市民がウゥルテリウスに不信感を持ったのが、オト軍の処刑でした。軍人も市民なのに、命令に従っただけの軍人を処刑するとは何事かということなのです。そんな混乱の状況を見て、ユダヤ戦争を指揮していた将軍ウェスパシアヌスが皇帝に名乗りを上げます。各地でウェスパシアヌスを支持し、各地で反乱が起きます。アントニウス・プリムスの軍団がローマに入城しウィテリウス軍に勝って彼を殺害しました。ガイウス・リキニウス・ムキアヌスが遅れて到着し、ローマの混乱を治めます。そして最後にウェスパシアヌスが皇帝としてローマ入りしました。ウィテリウスが殺害された12月20日の翌日に、元老院はウェスパシアヌスを皇帝として認めていたのでありました。

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2009年7月12日 (日)

68年

 西暦68年、遂にネロの世が終わり、ユリウス・クラウディウス朝はここで絶えます。そして、ローマは皇帝制度を維持すべくガルバを皇帝に立てました。

 ネロはこれまで身内を手掛けて来たのではありますが、ローマ市民からは愛されていました。カエサルの血を引くユリウス・クラウディウス朝の皇帝ですし、現に就任以来立派な皇帝ぶりを発揮していたのです。ところが、ローマ大火で初めて市民から疑いをかけられました。キリスト教徒を迫害して気をそらそうと張り切りすぎて、その度を超した残忍な迫害のため、市民はかえってキリスト教徒の同情をかい、ネロは狼狽えてしまいました。

 ネロは市民の支持を回復すべく、とんでもないことをやりました。市民の前で歌ったのです。ネロは元々音楽好きで、既にギリシャで歌手としてデビューしていました。しかしこんなことをやれば元老院や騎士達の指導者層の支持を得られるはずはありません。これが西暦65年の「ピソの陰謀」に繋がったのです。その後も、第2の暗殺計画「ベネヴェントの陰謀」が発覚しました。これはローマ前線の将校達が荷担した陰謀で、指導者層のみならず、軍人からも皇帝失格とされたのです。陰謀は未遂に終わり荷担した将校達は処刑したのですが、よく調べもせずパルティア問題を解決した英雄コルブロも処刑してしまったのです。ネロはこれで一件落着と安心し、ギリシャへ歌手巡業に旅立ちました。

 西暦68年1月、ギリシャ巡業を終えたネロは凱旋式を行いました。これが引き金となり、ガイウス・ユリウス・ヴィンデックスがタラコンネシス属州総督ガルバに皇帝就任を扇動します。これを各地の属州総督が支持し、元老院はネロを国家の敵と宣告します。ネロの周りからどんどん人が消えて行き、最後を悟ったネロはさんざん近習を手にかけたものの喉を剣で貫き自殺してしました。享年30歳、オクタウィアが死去した日と同じ6月9日のことでした。遺体はかつての恋人、解放隷女のアクテにより火葬されマルス広場に葬られたのであります。こんなネロにも市民は同情を示し、墓の前に献花が絶えることはなかったと記録されています。

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2009年7月11日 (土)

67年

 西暦67年、後漢の劉荘が治める永平の世に仏教が伝わったとされます。実際はそのかなり前から、僧侶や信者が洛陽や長安で仏教を布教していました。

 この年、インドの僧侶、迦葉摩騰(かしょうまとう)と竺法蘭(じくほうらん)が白馬に乗り、仏像と四十二章経(しじゅうにしょうぎょう)という経典を携えて洛陽にやって来ました。この経典の序文には、明帝が大月氏に使者を派遣して写経させたとする記述があります。これにちなんで、中国最後の仏教寺院、白馬寺(はくばじ)がその後に建立され、迦葉摩騰と竺法蘭はそこに住み、四十二章経を翻訳したと伝えられます。迦葉摩騰も竺法蘭もインド名の当て字なのでしょう。

 ところが、西暦67年以前に洛陽で既に仏教が流行っていたとする記録があるのです。それは、後漢書の楚王英伝であります。光武帝の三男、劉英(りゅうえい)は楚王の位を与えられていたので、楚王英(そおうえい)と呼ばれていました。西暦65年、劉英が謀反を起こそうとしていると密告されます。しかし、劉荘は絹を献上すれば許すという贖罪(しょくざい)で済ませたのであります。そのときの理由が、楚王は老子だけでなく仏教も学んでいるからというものだったのです。

 後漢書によれば、西暦65年に既に劉英が住んでいた彭城(ほうじょう)(現、徐州市)で仏教が流行っていたことになります。当時の都、洛陽や長安では仏教は当たり前のものになっていたことでしょう。この頃のローマ帝国で流行始めたキリスト教は弾圧されたのですが、後漢の仏教は容認されていたという対照的な構図になっていたと言えます。

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2009年7月10日 (金)

66年

 西暦66年、1月にハレー彗星が出現します。この星はユダヤ人に勇気を与え、7年にも及ぶローマ帝国とのユダヤ戦争を起こしました。

 紀元前5000年頃、チグリス川とユーフラテス川がペルシャ湾に流れ込む古代メソポタミアでシュメール人による都市国家がウルが発生しました。紀元前2000年にウルはバビロニアのハムラビ王に滅ぼされます。紀元前1800年頃、ウルからハランへ北上するセム部族としてアブラハムは生まれ、約束の地カナンへと旅立ちます。アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブはイスラエルと改名します。イスラエルの一族はエジプトに移住しますが、紀元前1230年頃モーセを中心としてエジプトを脱出し、約束の地カナンに向かいます。40年の放浪の後、モーセの後継者ヨシュアは散らばっていたイスラエル諸属を集めカナンに定住しました。

 その後、この地は南北に別れてしまうのですが、紀元前995年にダビデが両国の間のエルサレムを拠点としたイスラエル王国として統一します。ダビデの子ソロモンが引き継ぎ国は栄えたのですが、ソロモンの死後再び北はイスラエル王国、南はユダ王国と分離し、両国は争いを繰り返し国力が衰えてしまいました。紀元前586年、新バビロニアの攻撃によりユダ王国が滅亡し、ユダヤ人はバビロンに捕虜として連れて行かれました。紀元前538年、ペルシア王大キュロスは新バビロニアを滅ぼし、ユダヤ人を解放します。紀元前458年、ユダヤ人の民族外結婚を禁じる等した国の整備とユダヤ教の形式が固められ、これによりユダヤ民族の独自性が今日まで保たれることになりました。その後、ギリシャの支配下となったり、シリアと争ったりしたが、ローマの台頭によりその支配下に入り、ユダヤ属州となりました。

 当時のローマ帝国は、属州民族の文化を尊重してその地域をある程度自由にする政策を取っていました。しかし、多神教文化の地中海世界の中で、一神教を信じるユダヤは特殊な地域でありました。そのため支配されていたユダヤ人の反ローマ感情は日増しに高まっていました。そんな状況の中、カイサリアでユダヤ人虐殺が起きたのであります。これが引き金となって、エルサレムで過激派による暴動が起こります。ユダヤ属州総督フロルスは、暴動の首謀者の処刑によって事態を収拾しようとしましたが、逆に反ローマの機運を全土に飛び火させることになりました。シリア属州の総督が軍団を率いて鎮圧に向かうも、反乱軍の前に敗れてしまいます。これが最初のユダヤ軍の勝利となるのですが、最後の勝利でもありました。

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2009年7月 9日 (木)

65年

 西暦65年、ネロは暴君として仕上がりの仕事をします。愛するポッパエアを殺し、恩師セネカまでも処刑してしまうのです。

 西暦54年に若くして皇帝となったネロを補佐し、5年の良き時代と評された期間を支えたのがブッルスとセネカでした。小アグリッピナの殺害計画を認めていたブッルスとセネカでしたが、ポッパエアとの結婚には反対していました。ブッルスが殺害されセネカが引退し、やっとポッパエアとネロは結婚できました。ルキウス・アンナエウス・セネカは引退後、文筆業に力を入れ、数々の悲劇を生み出しました。

 西暦65年になって、ネロを退位させてガイウス・カルプルニウス・ピソを皇帝に擁立しようという計画が持ち上がります。当然のことでしょう。ところがこの計画がネロに露見してしまったのです。ピソを始め、計画した一味が捕らえらて行きました。その状況で、犯人の一人がセネカも関わったと白状しました。セネカは曖昧な対応を続け埒があかないので、ネロはセネカに自殺を命じたのであります。セネカは最期に、ネロは弟を殺し、母を殺し、妻を殺し、あとは師を殺す以外何も残っていないと言ったそうです。

 やっとネロと結婚できたポッパエア・サビナは、一人娘クラウディア・アウグスタを産みました。アウグスタの称号は喜びの余りネロが名付けたのです。しかし娘は数ヶ月で亡くなってしまいました。皇帝の妻としてポッパエアの評判は良くなかったようです。キリスト教徒の弾圧もポッパエアが指図したという説もあります。そんなポッパエアが二人目を懐妊しました。ところがネロの放蕩ぶりを叱り口論となります。ポッパエアはネロより7歳年上だったのです。ネロは激情して、妊娠中のポッパエアを蹴り殺してしまいました。正気に戻ったネロはさぞかし悲しんだことでしょう。遺体の処置は火葬にせず、香料を詰めて香油に漬けたままにしたと言われています。ネロはセネカの最後の言葉の通り、弟、母、妻、師を殺したのですが、苦労して結婚した二人目の妻と自分の子まで殺してしまったのであります。ネロの世はもう長くはないでしょう。

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2009年7月 8日 (水)

64年

 西暦64年、ローマで大火事が起こります。この事件がきっかけで、ネロは暴君の名を確立することになるのでした。

 ベン・ハーでお馴染みの戦車レースが行われたローマの大競技場はチルコ・マッシモと呼ばれます。ラテン語では、キルクス・マクシムスと言うのですが、キルクスは競技場、マクスムスは最大のという意味ですので、最大の競技場でありました。収容人数は何と10万人以上もあったそうです。そのチルコ・マッシモで火災が発生しました。その炎はローマ市街に燃え移り、ほとんどの建物を焼き尽くし多くの犠牲者を出しました。

 ネロはローマ市街の復興の手始めとして、わざわざローマの中心部に広大な黄金の宮殿ドムス・アウレアの建築を始めました。広さは50ヘクタールとも150ヘクタールとも言われ、ローマン・コンクリートを用いた革新的な建築でした。宮殿の構成は、庭園を中心に多くの建築物が複合したもので、入り口には大列柱廊と37mにも及ぶ高さのネロのブロンズ像を配置していました。また、天井から花びらと香水が降り注ぐ食堂や、天井が回転するドームなどで造られていました。これを見た市民は、ネロがこの宮殿を建てたかったから放火したのだと噂し始めたのです。

 火事に対しては全力で対処し、新しいローマの象徴として奮発したドムス・アウレアのせいで犯人にされたのではたまったものではありません。ネロはこの風評を収めるべく、当時流行始めていた新興宗教のキリスト教の信者を放火犯として処刑しました。多神教のローマ伝統宗教に対し、一神教のキリスト教を良く思わない市民もいたのです。しかし、この処刑はローマ帝国による最初のキリスト教弾圧となり、キリスト教世界はネロを暴君として明確に位置付けたのであります。なお、新約聖書「ヨハネの黙示録」にある獣の数666は、ネロの別名ネロ・ケーザルを意味します。なぜなら、ネロ・ケーザルはヘブライ文字でNRVN QSRと表記し、これらの文字は50,200、6、50、100、60、200を意味し、合計すると666になるからです。

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2009年7月 7日 (火)

63年

 西暦63年、58年から続いていたローマとパルティアの戦争が終了し、アルメニアに和平の世が訪れました。アルメニアのアルケサス朝が確立したのです。

 西暦54年、ヴォロガセス1世はアルメニアの不満分子を扇動してイベリアの王子だったラダミストゥス王を追い出し、まんまと弟のティリダテス1世をアルメニア王とすることに成功したのであります。ラダミストゥスは自分が殺した前の王ミトリダテスの娘ゼノビアを妻としていましたが、その身重の妻を連れて逃亡しました。ゼノビアは長時間馬に乗れない身体でしたので、いつ捕まるかわかりません。そこで敵の手に落ちるなら殺して欲しいとラダミストゥスに懇願します。ゼノビアはアラス川の川岸に置き去りにされますがが、羊飼い達に助けられました。ゼノビアはティリダテス1世の元へ連れて行かれ、王族たるアルメニア王の娘として手厚くもてなされました。一方、イベリアに逃げ帰ったラダミストゥスは、父親たるイベリア王ファラスメナス1世に企てた陰謀が失敗し処刑されたのであります。

 西暦55年、アルメニアへの干渉に成功したヴォロガセス1世は、逆にパルティア国内で息子ヴァルダネス2世に反乱を起こされます。また、西暦40年から始まったヴァルダネス1世の統治から対立していた王国アディアバネの王イサデス2世と開戦しました。その上、パルティア東方ではサカ人の侵入を受けます。これに追い打ちをかけて、ヒルカニアでも反乱が発生しました。ヴォロガセス1世は果敢にもパルティア国内各地を転戦し、局地戦に対応していきました。西暦58年、パルティアがアルメニアに目が届かなくなった隙に、ローマ軍はアルメニアに侵攻し首都アルタクサタは占領します。これに驚いたティリダテス1世は、パルティアに逃げ帰ってしまいました。ローマ帝国はカッパドキア人ティグラネス6世をアルメニア王に擁立しました。

 西暦63年、ネロの命令によりこの戦いを指揮したグナエウス・ドミティウス・コルブロは、大軍を率いてパルティアに侵攻しました。これに対してパルティアは戦いを選択せず、和平交渉に出ました。この結果、ティリダテス1世が再びアルメニア王に復帰するのですが、それはローマで皇帝ネロから戴冠をもらうという、ローマ帝国がアルメニアとパルティアを属国ともいえる立場に扱う内容でした。しかし、ティリダテスは大歓迎を受けてローマ入りし、これ以後親ローマ政策を取りました。このため、アルメニア、パルティア、ローマ間は西暦113年のトラヤヌスによるパルティア侵攻まで平和が保たれたのであります。

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2009年7月 6日 (月)

62年

 西暦62年、ネロがまた事件を起こしました。妻オクタウィアと補佐役のブッルスを殺害したのです。

 母親の小アグリッピナを手にかけた理由は、ブルタニクスのことだけではなく、ポッパエア・サビナとの結婚に反対されたということもありました。ポッパエアは14歳でル近衛長官フリウス・クリスピヌスと結婚したのですが、小アグリッピナがネロを皇帝とするためブッルスを近衛長官とし、フリウスを失脚させます。するとポッパエアはフリウスと離婚し、ネロの親友オトと結婚します。オトと結婚したのはネロに近付くためだったという説もあります。ポッパエアを見たネロは一目惚れしてしまい、オトをルシタニア(現ポルトガル)に左遷して、彼女を愛人にしました。

 ネロが母親を殺害したのは、実はポッパエアの指金だったのではないかとも言われています。ネロの妻はクラウディウスの娘オクタウィアですから、誰もがオクタウィアと離婚してポッパエアの結婚することを反対したでしょう。ネロに影響のあった母親がいなくなれば、次はネロの側近が邪魔となります。近衛長官ブッルスの調子が悪くなったときに、ネロの命令で治療に当たった医師に劇薬を使わせ殺してしまいます。紀元前8世紀から4年毎に開催されていた伝統のオリンピア祭に対抗すべく、5年に一度ネロ祭をやりたいというバカげた提案にも賛成していたブッルスまで殺害してしまうとは!これもポッパエアの指図だったのでしょうか。ポッパエアは奸臣ガイウス・オフォニウス・ティゲッリヌスと組んで、もう一人の側近セネカを引退させます。セネカはブッルスの死を見て、これまでと思ったことでしょう。

 邪魔者がいなくなって晴れてポッパエアと結婚することができるようになりました。オクタウィアとは不妊を理由に離婚しただけでなく、不倫をしていたとでっち上げ姦通罪でティレニア海の孤島パンダテリア島(現ヴェントテーネ島)に幽閉しました。そこで処刑しポッパエアに見せるため首だけをローマへ運びました。結局ネロは義妹弟とも殺害してしまったのです。オクタウィア22歳の初夏のことでありました。この年、ナポリ近郊の都市ポンペイで大地震が起きます。あまりに非道を繰り返すネロへの、天からの警告だったのでしょうか。

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2009年7月 5日 (日)

61年

 西暦61年、ガルバがヒスパニア・タラコネンシスの総督として就任しました。ヒスパニア・タラコネンシスとは現スペインであり、ローマ帝国の皇帝属州でした。また、セルヴィウス・セルピキウス・ガルバは西暦68年にネロの後に皇帝となります。

 ローマ帝国の属州には、皇帝属州と元老院属州の2種類がありました。皇帝属州とは、ローマ皇帝が属州総督を任命する権限のある属州であります。軍事的緊張が高い地域が皇帝属州でありました。皇帝に見込まれた人材が総督に任命されました。皇帝属州の総督はローマ帝国にとっても重要人物ということになります。これに対して元老院属州とは、元老院が総督を任命する権限のある属州であります。軍事的緊張が低く経済力もあって統治も上手くいきやすい地域が元老院属州でありました。

 さて、ヒスパニア・タラコネンシスがローマ帝国の属州となるまでの歴史を見てみましょう。紀元前4000年を過ぎた頃から、イベリア半島にイベリア人がやって来ました。紀元前1000年にはケルト人が来て、イベリア半島南部にはイベリア人、ケルト人は北部、西部に住む様になりました。紀元前264年、地中海西部の覇権を争って23年間に三度に渡るポエニ戦争がカルタゴと共和制ローマの間に勃発します。第一次ポエニ戦争後はカルタゴに支配されるのですが、第二次ポエニ戦争後は共和制ローマの支配と変わりました。紀元前181年から133年にかけて、ヒスパニア内で共和制ローマと何回か戦争を起こしますがこれらの戦争に負け、アウグストゥスの時代にはイベリア半島全域がローマに支配されました。ヒスパニア・タラコネンシスと名付けられたのは、紀元前27年のことであります。

 ガルバはヒスパニア・タラコネンシスの総督になったのですから、ローマ帝国で重職に就いた人物でした。若くして頭角を現したので、アウグストゥスやティベリウスから将来の期待がかけられていました。しかしこの時点でガルバ自身が皇帝になる野望はなかったと思われます。なぜなら、ガルバはユリウス・クラウディウス家とは何の血縁も婚姻関係もなかったからです。

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2009年7月 4日 (土)

60年

 西暦60年、現在のイギリス、当時のローマ帝国の属州ブリタニアでブーディカの乱が起こりました。ブーディカはイケニ族の女王であります。

 イケニ族はイングランド南東部ノーフォークに住んでいたケルト人の部族であります。西暦43年のクラウディウスによるブルタニア遠征時に、自発的にローマ帝国と同盟を結び征服を免れました。しかし、西暦47年からブルタニア担当となったローマ長官のプーブリウス・オストリオス・スカプラが武装解除要求を出したので、イケニ族は反乱を起こしました。この反乱は失敗するのですが、その後もイケニ族の独立は許可されました。

 当時のイケニ族はプラスタグス王によって治められていました。プラスタグス王は何とか征服されずにローマ帝国と同盟関係が結ぶことができ、部族の独立を維持しました。王はこれを確固たるものにするため、ローマ皇帝を王の二人の娘との共同統治者に仕立てました。ところがプラスタグス王が崩御すると、ローマは彼の意思を無視し土地や財産を簒奪し始めました。未亡人のブーディカは鞭打たれ、共同統治者だった二人の娘は陵辱されました。これらの仕打ちに対し、ブーティカはイケニ族の女王としてローマへ反旗を翻したのであります。

 ブーティカはイケニ族と同じケルト人部族のトリノヴァンテス族らを率い、トリノヴァンテスの故地カムロドゥヌム(現コルチェスター)をまずは奪回します。次に各地のローマ帝国植民地を次々に攻略して行きました。更にクィントゥス・ペティリウス・ケリアリスが率いたローマ軍第9軍団ヒスパナを打ち負かし、ロンディニウム(現ロンドン)を破壊しました。そしてウェルラミウム(現セント・オールバンズ)に攻め入り、数万人もの人々を殺戮したのであります。ブーティカ軍は敵を捕虜にすることなくことごと惨殺したのであります。この時点では、ネロは軍の撤退を決断したほどでした。しかし、アウグストゥスが紀元前41年に設立した名門第14軍団ゲミナを率いたスエトニウスは戦略を練ったワトリング街道でブーティカ軍を壊滅させます。この戦いでブーティカも亡くなり、プラスタグスの血筋は絶えてしまいました。これ以降、ローマはブルタニアで圧倒的な勢力を誇ることになります。

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2009年7月 3日 (金)

59年

 西暦59年、ローマ帝国の皇帝ネロは自ら暴君への道を歩み始めました。義理の弟ブリタニクスの次に、母親小アグリッピナを殺害したのであります。

 夫を毒キノコで殺し念願のわが子ネロを皇帝にした小アグリッピナは、政治についても口をはさみ始めました。西暦54年、ネロが皇帝に就いたときはまだ17歳だったので、家庭教師の哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカと近衛長官のセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐を受け治世していました。そのせいもあり、この頃のネロは若いのに名君と評判でした。ところが、ネロは小アグリッピナの干渉を疎ましく思う様になっていました。

 ネロはクラウディウスの娘オクタウィアを妻としていましたが、解放奴隷のアクテを寵愛していました。小アグリッピナは当然アクテを引き離そうとします。このためネロと小アグリッピナとの間に緊張が高まりました。小アグリッピナはクラウディウスの息子ブルタニクスに注目し始めます。ブルタニクスには帝位継承権があり、成人すれば前皇帝の血を引く者として帝位継承権を行使できるのです。西暦55年、ネロは晩餐中にブルタニクスを暗殺しました。

 ネロと小アグリッピナとの緊張は更に高まりましたが、セネカやブッルスが仲裁に入り何とかなっていました。ネロは小アグリッピナとナポリに旅行し、小アビリッピナがナポリ湾をはさんだ別荘に戻ることになると、豪華な船を用意してそれで湾を遊覧して帰るよう勧めました。この船には細工がしてあり、湾の半ばで沈没させ彼女を溺死させるつもりだったのです。そして計画は実行されたのですが、意外や小アグリッピナは岸辺まで泳ぎ助かります。小アグリッピナが助かったことを伝えるため、使者がネロの元に派遣されました。ネロは使者が短剣を持っていたので、それを小アグリッピナが皇帝に刺客を仕向けたと難癖を付けます。小アグリッピナは皇帝暗殺の容疑で、ネロが派遣した近衛兵によって殺されました。このとき小アグリッピナは近衛兵に向かって下腹部を指差し、ネロはここから生まれてきたのだからここを刺せと叫んだと伝えられています。

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2009年7月 2日 (木)

58年

 西暦58年、前年に崩御した光武帝の後を継いだ明帝が新しい元号の永平(えいへい)元年となります。また、この前年の西暦57年には、朝鮮半島南東の国、新羅で第3代王の儒理尼師今(ユリイサグム)が崩御し、第四代王に吐解尼師今(タレイサグム)が即位したのであります。今夜はこれまであまり詳しく取り上げなかった、光武帝の人物像を勉強したいと思います。

 光武帝は紀元前6年に、第6代前漢の皇帝、景帝(けいてい)の子、長沙王の劉発(りゅうはつ)を祖先として生まれました。姓は劉、諱(いみな)を秀、字(あざな)を文叔と名付けられました。子供の時分は大人しい性格で、大人になってからも変わらず温和で質素でありました。職に就くなら当時の憧れの官職、執金吾(しつきんご)、妻を娶るなら地元の南陽で美人と評判だった陰麗華(いんれいか)と結婚するのが夢でした。陰麗華は後に皇后として、夢を叶えています。

 西暦25年、劉秀は臣下から皇帝即位を上奏されますが、2度固辞します。更に3度目の要請も断るのですが、4度目に赤伏符(せきふくふ)という讖文を奏上され漸く即位を受託し、元号を建武としました。実はことのとき、劉秀は赤い龍にまたがって天に昇る夢を見たそうであります。西暦36年に蜀の公孫述を滅ぼし中国を統一するのですが、長引いた戦争によって疲弊した国土を回復するため奴隷の解放や大赦を数度にわたって実施します。自由民を増やして農村の生産力を向上させるのが狙いでした。また、平時は農業に従事させ有事に兵とする屯田兵も多用しました。これらの政策で食料問題を解決しました。周辺諸国に対しては柔軟に接し、小国も王国と認め、無用の戦乱を避けて後漢の回復を図って行ったのであります。

 劉秀は中国史上で只一人、一度滅亡した王朝の復興を成功した君主であり、即位後も自分を見失わず権力に乱心することもく、庶民の立場で治世を行った名君であります。諡号の光武帝の「光」は漢朝を復興した証、「武」は乱れた世を平定したことによります。後に、三国志で有名な諸葛亮(しょかつりょう)孔明や中国北宋時代に資治通鑑(しじつがん)を著した司馬光(しばこう)は、劉秀を随一の名君と評価しています。司馬光は劉秀が道義を大事にした政策を実践したので、200年後の曹操ですら漢王朝を簒奪(さんだつ)できなかったとしたのであります。

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2009年7月 1日 (水)

57年

 西暦57年、倭(わ)の奴国(なのこく)王の使者が後漢に入貢し、光武帝より「漢委奴国王」の印綬を下賜(かし)されました。その後、光武帝は崩御され、明帝となる劉荘が即位したのであります。

 時は1731年も未来にワープする西暦1784年4月12日、当時の江戸時代の元号では天明4年2月23日のこと、福岡県福岡市東区志賀島南端、叶崎の「叶の浜」で地元の百姓が耕作中、大きな石をこじ開けてみると、三つの石に囲まれた何かを偶然見つけました。百姓はそれを那珂郡奉行に届けました。奉行はそれを福岡藩へと納め、儒学者亀井南冥(なんめい)にそれが何かを調べさせます。南冥は後漢書、東夷伝を引用し、それがそこに記載された金印であることを素早く発見したのであります。引用した箇所にはこう書かれています。

 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見(建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。倭国の極南界なり。光武は印綬を賜った。安帝の永初元年(西暦107年)、倭国王の帥升に奴隷160人を献上させ、朝見を請い願った。)

 印には「漢委奴國王」と彫られていました。当時、博多付近にあった奴国の王は、後漢の皇帝と君臣関係を結んだのであります。わざわざ後漢に行ってまでも君臣関係が欲しかったのは、後漢からの軍事的圧力を恐れてのことではなかったと思われます。おそらく日本国内で後漢の権威を背景とし、周辺の国(日本内の)に有利な地位を築くことだったのではないでしょうか。紀元前2世紀頃には日本に約100の国があり、当時既に倭国から前漢に定期的に朝貢していたと漢書に残されています。

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