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2009年7月 2日 (木)

58年

 西暦58年、前年に崩御した光武帝の後を継いだ明帝が新しい元号の永平(えいへい)元年となります。また、この前年の西暦57年には、朝鮮半島南東の国、新羅で第3代王の儒理尼師今(ユリイサグム)が崩御し、第四代王に吐解尼師今(タレイサグム)が即位したのであります。今夜はこれまであまり詳しく取り上げなかった、光武帝の人物像を勉強したいと思います。

 光武帝は紀元前6年に、第6代前漢の皇帝、景帝(けいてい)の子、長沙王の劉発(りゅうはつ)を祖先として生まれました。姓は劉、諱(いみな)を秀、字(あざな)を文叔と名付けられました。子供の時分は大人しい性格で、大人になってからも変わらず温和で質素でありました。職に就くなら当時の憧れの官職、執金吾(しつきんご)、妻を娶るなら地元の南陽で美人と評判だった陰麗華(いんれいか)と結婚するのが夢でした。陰麗華は後に皇后として、夢を叶えています。

 西暦25年、劉秀は臣下から皇帝即位を上奏されますが、2度固辞します。更に3度目の要請も断るのですが、4度目に赤伏符(せきふくふ)という讖文を奏上され漸く即位を受託し、元号を建武としました。実はことのとき、劉秀は赤い龍にまたがって天に昇る夢を見たそうであります。西暦36年に蜀の公孫述を滅ぼし中国を統一するのですが、長引いた戦争によって疲弊した国土を回復するため奴隷の解放や大赦を数度にわたって実施します。自由民を増やして農村の生産力を向上させるのが狙いでした。また、平時は農業に従事させ有事に兵とする屯田兵も多用しました。これらの政策で食料問題を解決しました。周辺諸国に対しては柔軟に接し、小国も王国と認め、無用の戦乱を避けて後漢の回復を図って行ったのであります。

 劉秀は中国史上で只一人、一度滅亡した王朝の復興を成功した君主であり、即位後も自分を見失わず権力に乱心することもく、庶民の立場で治世を行った名君であります。諡号の光武帝の「光」は漢朝を復興した証、「武」は乱れた世を平定したことによります。後に、三国志で有名な諸葛亮(しょかつりょう)孔明や中国北宋時代に資治通鑑(しじつがん)を著した司馬光(しばこう)は、劉秀を随一の名君と評価しています。司馬光は劉秀が道義を大事にした政策を実践したので、200年後の曹操ですら漢王朝を簒奪(さんだつ)できなかったとしたのであります。

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