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2012年2月29日 (水)

1030年

 西暦1030年、ノルウェーでスティクレスタズの戦いが勃発しました。この戦いでノルウェー王だったオーラヴ2世が戦死しました。

 西暦1014年、デンマーク、ノルウェー、イングランド3国の王、スヴェン1世が突然崩御しました。そして、デンマーク王位はハーラル2世が、ノルウェー王位はオーラヴ2世が継ぎました。

 イングランドはエゼルレッド2世が復位したのですが、西暦1016年、スヴェン1世の息子クヌーズ1世がイングランド王に推挙されました。西暦1018年、兄のハーラル2世が崩御しデンマーク王位を継ぎました。

 クヌーズ1世はスウェーデンやノルウェーに遠征し勢力を広げました。西暦1028年、クヌーズ1世は遂にノルウェー王位も兼ねることになりました。クヌーズ1世は3国を治める大王と称され、強大な北海帝国を築き上げたのであります。王位を奪われたオーラヴ2世は逃亡し、北海を航行する生活に入りました。そんなとき、彼はスティクレスタズの戦いに遭遇し、死後、ノルウェーの永遠の王という称号を与えられたのであります。

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2012年2月28日 (火)

1029年

 西暦1029年、遼国の将軍、大延琳が満州に興遼(こうりょう)を建国しました。渤海の再興であります。

 当時、東京遼陽(とうけいりょうよう)府には渤海人が居住させられていました。渤海が滅亡した後、渤海遺民は健在だったのであります。

 西暦926年、渤海は契丹に滅ぼされました。しかしその後、渤海の再興が何回も試みられたのであります。

 西暦928年、滅亡時の王の弟、大某が後渤海を建国しました。西暦930年、甥の大光顕も再興を試みました。西暦938年、渤海の貴族が定安(ていあん)を建国し、西暦979年、第3代国王の大元は国名を後渤海と改名しました。西暦1018年、後渤海は滅亡したのですがその11年後、大延琳が遼に反旗を翻し興遼を建国したのであります。大延琳は自らを天興皇帝と称し、女真族も乱に合流して反乱規模は拡大したのですが、翌年、遼に鎮圧され僅か1年で興遼は滅亡します。しかしながら、渤海再興の歴史はまだ続きます。

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2012年2月27日 (月)

1028年

 西暦1028年、平忠常(ただつね)の乱が房総で起きました。朝廷は討伐軍を派遣しましたが、鎮圧に3年もかかります。

 西暦900年以降、平良文から子の忠頼、孫の忠常と3代に渡り関東で勢力を伸ばしていました。忠常に至っては上総国、下総国、常陸国に広大な所領を有し、傍若無人に振る舞って納税の義務も果たさなかったのであります。

 西暦1028年、忠常は安房守の平惟忠を焼き殺してしまいました。そして、上総国の国衙を占領したのであります。

 これを見た上総国の国人たちは忠常に加担し、反乱は上総国、下総国、安房国と房総3カ国に広まったのであります。後一条天皇は平直方と中原成道を追討使に任じました。ところが、中原成道は戦争に消極的で、関東へ向かう途中に母親の病を理由にして美濃国で滞陣しました。そのため平直方と連携が取れないばかりか仲たがいし、討伐軍は苦戦してこの年は一向に乱を鎮圧することはできなかったのであります。

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2012年2月26日 (日)

1027年

 西暦1027年、スペインの都市ビックの司教が神の休戦を布告しました。これは貴族が私的に戦争しないというものであります。

 神の休戦とは、水曜の夜から月曜の朝まで私的な戦闘は休戦するとしたものであります。1400年代まで続いたと言われます。

 西暦1022年、ビックの司教オリバ修道院長は神の休戦(トレウガ・デイ)を提案し始めました。そして、西暦1027年、トルジェスでの会議で採択され布告されたのであります。

 神の休戦は当時のヨーロッパに強い影響を与え、各地に広まりました。一見拘束力がないように思えるのですが、これを破ったものはキリスト教を破門されるという強い罰則が設けられたのであります。神から見捨てられては生きていけない貴族達は、忠実に神の休戦を守ったことでありましょう。

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2012年2月25日 (土)

1026年

 西暦1026年、趙行徳がうっかりして科挙の試験を逃しました。これが契機となり、趙行徳は西夏と関わるようになります。

 一族の期待を背負って趙行徳は、科挙の最終試験殿試を受けるため北宋の首都開封にやって来ました。行徳に出された問題は、西夏対策を述べよというものでありました。

 西夏が単なる辺境だと思っていた行徳は考えあぐねている間、午後の暑い日ざしの中で眠ってしまいました。目を覚ますと誰もいない試験場から追い出され、絶望と混乱の中彷徨っているとたまたま売りに出されていた女奴隷を見つけ買って救うことにしました。女は私にできるお礼はこれしかないと紙切れを渡したのですが、それは西夏文字であり行徳には読めず、その文字を読みたいという一念が行徳の人生を変えて行きます。

 これは井上靖著「敦煌」の始まりであります。趙行徳は架空の人物ですが、時代背景やその後に登場する西夏の初代皇帝、李元昊(りげんこう)は実存した歴史上の人物です。1988年に映画化され、筆者は名古屋に勤務しているとき夫婦で映画館に足を運びました。歴史を勉強するようになって、あの映画の時代背景がわかるようになり、趙行徳が本当はいたのかも知れないと思い今夜の勉強に登場してもらうことにしました。趙行徳を演じた佐藤浩市は若く、私達夫婦も元気で若かったのであります。

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2012年2月24日 (金)

1025年

 西暦1025年、渡辺綱(つな)が薨去しました。源頼光の家臣で、四天王の1人でありました。

 武蔵国で嵯峨源氏の源宛(あつる)の子として、武蔵国足立郡箕田郷(現埼玉県鴻巣市)に生まれました。摂津源氏の源満仲の娘婿、仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里、摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に居住して、渡辺氏の祖となります。

 源頼光に仕え、四天王の筆頭として剛勇で知られました。大江山の酒呑童子退治、京都の一条戻り橋の上で鬼の腕を源氏の名刀、髭切りの太刀で切り落とした逸話で有名であります。

 先祖の源融は源氏物語の主人公、光源氏の実在モデルであります。綱も美男子でありました。大阪氏北区にある太融(たいゆう)寺は源融ゆかりの寺でありますが、その近くにあるお初天神として有名な露天神社の宮司家は、渡辺綱の子孫であります。霊廟は兵庫県川西市の小童寺にあります。小童寺は源満仲の末子、美女丸が建立した寺であります。小童寺にはこんな逸話があります。満仲は美女丸が修行を怠ったことに怒り、重臣の藤原仲光に美女丸の首を切れと命じました。しかし仲光は自分の子の幸寿丸の首を切って満仲に差しだし、美女丸を逃がしたのであります。これを知った美女丸は出家して名僧となり、幸寿丸をとむらうため小童寺を建てたと言われています。

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2012年2月23日 (木)

1024年

 西暦1024年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世が崩御しました。次代はコンラート2世が継ぎます。

 西暦1002年、オットー3世が僅か21歳の若さで崩御しました。独身だったオットー3世に直系の後継者はおらず、次期王座の争いが起きました。

 その中でバイエルン公ハインリヒ2世の子ハインリヒ4世が王位を獲得し、ハインリヒ2世と名乗りました。しかし王位を承認しなかった諸公もいたため、ハインリヒ2世は各地で王位の承認を得る活動に努めたのであります。

 西暦1014年、ローマへ赴きローマ教皇ベネディクトゥス8世に戴冠され、神聖ローマ皇帝となりました。西暦1024年、51歳で崩御したのですが跡取りがおらず、ここでザクセン朝は途絶えたのであります。国王選挙が開催され、カロリング朝の血を引くコンラート2世が選出されザーリアー朝を開始することとなりました。

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2012年2月22日 (水)

1023年

 西暦1023年、ガズナ朝がトランスオクシアナを占領しました。ガズナ朝は第7代スルタンのマフムードの元、全盛期を迎えます。

 中央アジアのトランスオクシアナは、アムダリヤ川とシルダリヤ川に挟まれた地域を指します。現在の国名では、ウズベキスタン、タジキスタンとカザフスタン南西部の一部に該当します。

 西暦999年、マフムードはサーマーン朝を滅亡させました。その後、マフムードは北インドに侵攻し、西暦1018年、プラティハーラ朝を滅ぼしてインドにまで勢力を広げたのであります。

 トランスオクシアナはサーマーン朝の支配下にありました。サーマーン朝を滅ぼしたマフムードは、ホラーサーンは支配下に置いていたのですが、トランスオクシアナは後回しになりました。サーマーン朝はガズナ朝だけでなく、カラハン朝の攻撃も受け滅亡したのですが、トランスオクシアナを最初に占領したのはカラハン朝でした。しかし、ガズナ朝はカラハン朝を圧倒し、トランスオクシアナを支配下に置いたのであります。

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2012年2月21日 (火)

1022年

 西暦1022年、スウェーデン王オーロフ・シェートコヌングが崩御しました。次代は息子のアーヌンド・ヤーコブが継ぎます。

 西暦995年、父エリク6世が崩御し、オーロフは王位を継承しました。エリク6世はスウェーデンのユングリング朝の初代に当たりました。

 西暦999年、スヴォルド海戦でデンマーク王スヴェン1世と連合し、ノルウェー王オーラヴ1世と戦って勝利しました。オーラヴは最後まで北欧最強と言われた旗艦、長蛇号で戦い、最後は海に身を投じたと言われています。

 西暦1008年、オーロフは洗礼を受けキリスト教徒になりました。オーロフ以降、スウェーデン王はキリスト教化しますが、スウェーデンは北欧で最も遅くまで異教の影響が残りました。オーロフはキリスト教徒になった後も、異教の司祭を務め国民に配慮し続けたのであります。キリスト教徒が国内の過半数となるのは12世紀になってからのこととなります。

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2012年2月20日 (月)

1021年

 西暦1021年、ラドボット・ハプスブルク伯がスイスに城を建てました。これがハプスブルク家の源流となるハプスブルク城であります。

 10世紀のドイツ系貴族グントラムの孫にラドボットがいました。彼はスイス北東部アールガウ州パーゼル近郊のライン川上流に城を建てました。

 この城は鷹の城という意味のハビヒツブルクと呼ばれました。このハビヒツブルクが訛って、彼はハプスブルクのラドボットと呼ばれるようになりました。

 ラドボットの孫のオットー2世が正式に家名としてハプスブルクを名乗り、以降ハプスブルクの栄光の歴史が始まります。ハプスブルク城はスイスのハプスブルク村に現存しており、村の人口は今や400人ほどですが城はレストランとして使われています。調度品も備えた大小の部屋もダイニングルームとして利用され、今も日々観光客で賑わいを見せるのであります。

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2012年2月19日 (日)

1020年

 西暦1020年、ペルシャの科学者イブン・スィーナーが医学典範を完成させました。この書物が西洋医学の基礎となります。

 西暦980年、イブン・スィーナーはサーマーン朝の高官の息子として生まれ、幼い頃からあらゆる分野の学問に興味を持ちました。10歳でコーランを暗誦し、16歳で医学を修め、18歳にしてほとんどの学問を修めました。

 西暦999年、サーマーン朝が滅亡したためイブン・スィーナーは放浪の旅に出、同時に医学典範を書き始めました。西暦1015年、ブワイフ朝に高官として招聘され、西暦1020年、医学典範を書き終えたのであります。

 イブン・スィーナーはギリシャ医学やローマ医学を基にして、医学を理論的に体系化しようと努めたのであります。医学典範は当時のギリシア、ローマ、アラビア医学の集大成でありますが、理論があり体系化された科学の書でもありました。ラテン語に翻訳された同書は、17世紀までヨーロッパの大学で使用されました。インドにおいては、20世紀初頭まで使われたのであります。

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2012年2月18日 (土)

1019年

 西暦1019年、満州の女真族が対馬、壱岐を襲う刀伊の入寇(といのにゅうこう)が勃発しました。大宰権帥の藤原隆家が撃退したのですが、朝廷は何もしなかったのであります。

 この年の3月27日、刀伊が50隻の船に3000人が乗り込んで、対馬を襲いました。刀伊とは、高麗が北方の蛮族に使う呼び名であります。

 賊は殺人と放火を繰り返し、健康な成人男女だけを拉致しました。対馬が終わると壱岐に移動し略奪を繰り返し、4月8日には博多に上陸しました。

 これに対し大宰権帥の藤原隆家は、九州の豪族や武士を率いて果敢に対処し撃退したのであります。これは刀伊の船団が博多に停留したとき、風波が厳しく賊が船内に留まったときに隆家が狙い撃ちして撃退に成功したと記録されています。将来起こる元寇との戦いを予感させるものであります。遭い、逃亡したと記されている。この非常事態に対し朝廷は何も対応を行わず、隆家らに何らの恩賞を与えなかったのであります。これは武士の影響力を強めることに繋がります。

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2012年2月17日 (金)

1018年

 西暦1018年、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世は第1次ブルガリア帝国を滅亡させました。これにより東ローマ帝国は337年ぶりにバルカン半島を取り戻したのであります。

 西暦1014年、東ローマ帝国軍はクレディオン峠の戦いで第1次ブルガリア帝国に大勝しました。このとき戦っていたブルガリア皇帝サムイルは敗走したのであります。

 バシレイオス2世はこの戦いで捕虜となったブルガリア兵士1万4千に残酷な仕打ちを施しました。100人に付き1人だけ片目を見えなくし、残りを全盲にしサムイルの元へ送り返したのであります。

 片目の部下が99人の盲人を引き連れる140もの小部隊を見たサムイルは卒倒しました。それが原因となりサムイルは崩御し、2人の息子がブルガリア帝国を継ぎ東ローマ帝国に抵抗を続けました。しかし4年後、バシレイオス2世は完全にバルカン半島を征服しました。このため、バシレイオス2世はブルガリア人殺しという意味のブルガロクトノスと呼ばれました。ただブルガリア征服後はスラブ人に対し寛容な政策を取り、他の征服地では許されない物納による納税を許したのであります。

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2012年2月16日 (木)

1017年

 西暦1017年、三条天皇が崩御しました。藤原頼通(よりみち)が摂政となり、藤原氏は全盛期を迎えました。

 西暦1016年、三条天皇は道長に屈し後一条天皇に譲位し、道長が摂政となりました。西暦1017年、道長の長男、頼通が僅か26歳で摂政と、藤原氏一族全体の氏長者である藤氏長者(とうしのちょうじゃ)も父、道長から譲られたのであります。

 またこの年、三条天皇は出家し、程なくして42歳で崩御しました。その後、譲位の条件に皇太子となった敦明親王は、道長の圧力に耐えかねて東宮を辞退したのであります。

 道長は敦明親王を准太上(じゅんだいじょう)天皇とし、娘の寛子を嫁がせて優遇しました。東宮には道長の望み通り長女彰子の次男、敦良(あつなが)親王を立てました。道長は年末に太政大臣となり、位(くらい)人臣(じんしん)を極めたのであります。

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2012年2月15日 (水)

1016年

 西暦1016年、三条天皇が譲位し、第68代、後一条天皇が即位しました。これは藤原道長の差し金であり、道長は摂政となりました。

 西暦986年、一条天皇の即位にともない、藤原兼家の後押しで天皇より4歳年上にもかかわらず東宮となりました。藤原道隆、道兼、道長3兄弟が政権を掌握していたため、三条天皇は25年もの東宮時代を過ごしたのであります。

 西暦1011年、一条天皇が譲位し三条天皇が即位し、道長の長女、彰子が生んだ敦成(あつひら)親王が東宮となりました。三条天皇は親政を望んだのですが、道長は外孫の早期即位を図ったため、両者は確執するようになったのであります。

 三条天皇には道長の次女で中宮の藤原妍子(けんし)がいながら、東宮の時からの后で藤原済時(なりとき)の娘、娍子(せいし)を皇后にしました。そして、妍子との間に男児が生まれなかったことから、三条天皇と道長は完全に対立するようになりました。西暦1015年、道長は天皇の眼病を理由に譲位を迫るようになり、更に内裏の火災が起こり天皇は譲位を認めたのであります。西暦1016年、三条天皇は娍子との間にもうけた敦明(あつあきら)親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い退位したのであります。

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2012年2月14日 (火)

1015年

 西暦1015年、ベルセルクがノルウェーで禁止されました。こうしてベルセルクは消え去って行きます。

 ベルセルク(berserkr)の語源は、古ノルド語で熊 (ber) の毛で作った上着 (serkr) を着た者とされています。ベルセルクとは、北欧神話に登場する異能の戦士たちであります。

 ベルセルクとは、北欧神話の軍神オーディンの神通力をうけた戦士であります。戦闘の際は野獣になりきって戦うのですが動く物なら何にでも襲ったため、他の兵士とは離して配備されたといわれます。

 西暦885年、ハーラル1世がノルウェーを統一した頃、ベルセルクは親衛隊として活躍していました。しかし、北欧では農民が武器を持って戦うことが多く、人殺しのみを生業とする職業軍人は蔑視されていました。また、北欧がキリスト教化されるに連れ、ベルセルクは異端者として扱われるようになったのであります。

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2012年2月13日 (月)

1014年

 西暦1014年、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世はクリディオン峠の戦いで第1次ブルガリア帝国に大勝しました。この勝利により、4年後に第1次ブルガリア帝国を滅亡させます。

 西暦681年、ブルガール人のハン、アスパルフは東ローマ帝国領の黒海西岸を襲い、ドナウ・ブルガール・ハン国を建てました。東ローマ皇帝コンスタンティノス4世の討伐軍を撃退し、この地の支配権を認められたのであります。

 西暦893年、第22代ハンにシメオン1世が即位し、領土はマケドニア地方やギリシャのペロポネソス半島北部にまで及び最盛期を実現しました。西暦918年、シメオン1世は皇帝を称するようになり、これにより現代では国名を第1次ブルガリア帝国と呼ぶようになりました。

 シメオン1世崩御後、帝国は衰え始めました。西暦970年、帝国はキエフ大公スヴャトスラフ1世に占領され、翌年、東ローマ帝国がキエフ軍を討ちそのまま併合されたのであります。西暦976年、東ローマ帝国皇帝ヨハネス1世が崩御後の内紛に乗じて、サムイルが内乱を起こし独立を回復しました。西暦986年、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世はブルガリアに対し30年戦争を開始し、西暦1014年、クレディオン峠の戦いで圧勝し、サムイル帝も崩御しました。西暦1018年、バシレイオス2世はブルガリアを併合し、第1次ブルガリア帝国は滅亡します。

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2012年2月12日 (日)

1013年

 西暦1013年、北宋で類書と呼ばれる百科事典のような冊府元亀(さっぷげんき)が完成しました。この頃、北宋の首都、開封(かいふう)は世界一の大都市とされています。

 冊府元亀は、北宋になって先に完成している類書の太平広記、太平御覧、文苑英華とあわせ四大書と称せられます。皇帝の勅命により8年の年月をかけ編纂され、1000巻に及ぶものとなりました。

 また、開封の人口は40万人を越え、当時の都市としては世界最大の都市となっていました。開封の成立は紀元前700年頃の春秋時代であります。

 唐代末期、首都の長安は荒廃してしまったので、開封が全中国の中心地となりつつありました。唐から皇帝の座を簒奪した朱全忠は、後梁を建てたとき開封を首都としました。その後も後唐が首都を洛陽にした以外は、各政権とも開封を首都としました。後周から禅譲を受けた趙匡胤は、開封を東京開封府と称して首都とし北宋を建てました。開封は3重の城壁で取り囲む工事が行われ、運河の一部も引き込まれました。国中の物資が集まり、庶民の夜間通行も許可され空前の繁栄期を迎えます。空き地には屋台が立ち並んで人々が集い、大道芸や講談も行われました。その繁栄振りは、後に南宋で編纂された東京夢華録(とうけいむかろく)に記録されています。

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2012年2月11日 (土)

1012年

 西暦1012年、加賀国の農民が国守、源政職(まさもと)を非法32カ条で訴えました。しかし政職はこの訴えを退けたのであります。

 この頃、農民から国守や郡司の非法を訴える書状が、朝廷に多く届いていました。この年は大和と加賀の国から訴えが届いていました。

 加賀の訴えは、加賀守だった源政職が地元の農民と紛争を起こして届けられたものであります。弾劾項目の32ヶ条は当時の訴状で項目数が最も多いものでした。

 朝廷は政職と農民の双方を喚問し、政職は任用国司や郡司書生らを連れて参上しました。政職側でも農民を訴える解文を提出しており、朝廷では無実の申し立てをしたのであります。一方、農民側は出頭せず、結局政職は非政無実ということで赦免されました。政職が農民側に何らかの働きかけを行ったのではないかと言われています。政職は加賀守辞任後、群盗に襲撃され殺害されることになります。

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2012年2月10日 (金)

1011年

 西暦1011年、一条天皇が居貞(おきさだ)親王に譲位し、第67代天皇、三条天皇が誕生しました。一条天皇は譲位して9日後に崩御しました。

 西暦986年、一条天皇は藤原兼家の陰謀により、僅か6歳で天皇に即位しました。皇太子には4歳年上の冷泉天皇の皇子、居貞親王を立てたのであります。

 摂政には兼家が就任し、兼家の死後は長男の道隆が外戚として摂関を務めました。道隆が病没すると弟の道兼が関白に就任したのですが7日後に没し、道隆の子の伊周と弟の道長が次代を争うのですが道長が内覧となって次代を掌握しました。

 一条天皇の時代は、皇后定子に仕える清少納言が枕草子、中宮彰子に仕える紫式部が源氏物語や和泉式部らによって平安女流文学が花開きました。一条天皇も文芸に深い関心を示し、本朝文粋に漢詩を残しています。また、音楽にも堪能で笛が得意で、多くの人に慕われたのであります。道長にかねてより譲位の意向を伝えていたのですが留意されていました。しかし西暦1011年、病に倒れ三条天皇に譲位し、ほどなくし崩御したのであります。

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2012年2月 9日 (木)

1010年

 西暦1010年、イングランドでマルムズベリー修道院のエイルマーが、自作のグライダーによるフライトに挑戦しました。グライダーと言っても両手両足に翼を付けたものでありました。

 西暦875年、後ウマイヤ朝の学者アッバース・イブン・フィルナスがハンググライダーによるフライトを試み負傷しました。有史で初の飛行記録であります。

 西暦1010年、フィルナスの飛行に影響を受けたベネディクト会の修道士エイルマーがフライトに挑戦しました。しかしフィルナスと同じく負傷しています。

 エイルマーはマルムズベリー修道院で数学と占星術を学んでいました。ギリシャ神話のダイダロスを信じ、またフィルナスの記録を読んで、自分もフライトに挑戦しようと思いました。そして、両手両足に翼を取り付け、マルムズベリー修道院の塔から飛び立ったのであります。このフライトで200m飛んだとされています。この飛行により、エイルマーは生涯にわたる不具者となったのですが、グライダーに尻尾を付ければ安全に着陸できると結論し準備を始めました。ところが、修道院長がエイルマーを心配して飛行実験を禁じたため、彼の第2フライトが行われることはなかったのであります。

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2012年2月 8日 (水)

1009年

 西暦1009年、前黎朝の黎龍鋌が部下に殺害されました。混乱の中、李公蘊(りこううん)が帝位を簒奪しベトナムに李朝が建てるのであります。

 西暦1005年、弟を殺害して皇帝の座を簒奪した黎龍鋌は暴君でありました。即位して僅か4年、西暦1009年、24歳のとき部下に殺害されたのであります。

 黎龍鋌の子が10歳と幼少だったため、弟の黎明提と黎明昶が挙兵し皇帝の座を争い始めました。この混乱の中、朝臣や僧侶に親衛隊指揮官の李公蘊が皇帝の座を推戴される形で帝位を簒奪したのであります。

 翌年、李公蘊は首都を華閭(ホアルー)から昇龍(タンロン:現ハノイ)に遷都し、元号を順天として李朝を建国します。それまでのベトナム王朝は、中国の冊封体制の中では常に郡王扱いだったのですが、李朝から国王扱いされ民族意識が高まっていくのであります。

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2012年2月 7日 (火)

1008年

 西暦1008年、紫式部が日記を書き始めました。この日記で源氏物語のことが書かれてあり、紫式部が作者とされたのであります。

 この年、紫式部が仕える中宮の彰子が敦成親王を出産しますが、それを記念するかの様に女房、紫式部が日記を認め始めました。日記には父、道長の狂気ぶりが書かれています。

 またこの年11月1日、藤原公任(きんとう)が、あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふと語りかけたとあります。若紫は源氏物語の登場人物であることから、源氏物語が歴史上はじめて記録されたものであるとされています。

 西暦2006年11月1日、この日が源氏物語で重要な年と日ということで、千玄室、秋山虔、梅原猛、瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン、芳賀徹、村井康彦、冷泉貴実子の8名により源氏物語千年紀のよびかけが行われます。翌年1月、源氏物語千年紀委員会が発足し、西暦2008年11月1日に11月1日を古典の日とすることが提案されます。

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2012年2月 6日 (月)

1007年

 西暦1007年、北宋に上海が築かれました。上海は人工的に造られた都市だったのであります。

 上海の位置は、揚子江デルタ地帯にある湿地でありました。紀元前の春秋戦国時代には楚の春申君(しゅんしんくん)が治めていたので、今でも申が略称に使われることもあります。

 西暦751年、唐中期に上海浦という漁村ができました。そして西暦1007年、この地を交易所にすべく、上海鎮として格上げし防波堤工事等が始まったのであります。

 その後100年ほどは12000戸ほどの小さな町だったのですが、周辺の難民が流入し始め、政府も人口増に対応したため大都市への道を歩むことになります。この周辺は、上海の隣の蘇州が江南の主要都市として栄えていました。西暦610年、京杭大運河の開通により、北京との交易も盛んに行われました。しかし上海の発展に伴い、関係が逆転して行きます。

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2012年2月 5日 (日)

1006年

 西暦1006年、おおかみ座に超新星が出現しました。人類の記録にある限り、太陽と月以外で最も明るい天体でありました。

 この年の4月30日から5月1日にかけて、超新星のSN1006は出現しました。この超新星の出現は、日本、中国、イラク、エジプト、スイス、北アメリカで記録されています。

 これらの記録で、昼間でも見ることができたほど明るく-9等星と推測されています。その明るさは夜でもSN1006の光でものを読めたと言われています。

 SN1006の残骸は、淡い球殻状の星雲として残っています。最新の観測では、SN1006の残骸は地球から約7175光年の距離にあることがわかっています。直径は約65光年で、毎秒2800kmも膨張しつつあります。

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2012年2月 4日 (土)

1005年

 西暦1005年、ベトナム前黎(ぜんれい)朝を興した皇帝、黎桓(れいかん)が崩御し、3男の黎龍鉞(れいりゅうえつ)が第2代皇帝に即位しました。しかし、即位僅か3日で5男の黎龍鋌(れいりゅうてい)が皇帝の座を簒奪しました。

 西暦980年、丁(てい)朝の反乱に乗じて将軍だった黎桓は臣下に推されて皇帝に即しました。これで西暦966年に興された丁朝は廃され、前黎朝が興りました。

 西暦982年、黎桓はベトナム南部のチャンパ王国に侵攻し、一時はベトナム全土を制圧し全盛期を誇りました。西暦1005年、黎桓は崩御し3男の黎龍鉞が皇帝の座を継ぎました。

 ところが、黎龍鉞が即位してから3日後、5男の黎龍鋌が黎龍鉞を殺害し皇帝の座を簒奪したのであります。黎龍鋌は殺戮を好み、酒色乱倫にふける暴政を開始しました。痔を患っていて寝転んだまま政務を執っていたため、臥朝と言われていました。

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2012年2月 3日 (金)

1004年

 西暦1004年、北宋と遼の間に澶淵(せんえん)の盟が結ばれました。これで北宋の平和が保証されたのであります。

 西暦982年、遼の第6代皇帝に耶律文殊奴が即位しました。文殊奴は遼の内紛を収め、北宋に対する攻撃態勢を整えました。

 西暦1004年、遼は20万の軍で南下を始めました。これに対し北宋は大臣の寇準(こうじゅん)の意見が採用され迎え撃つことになったのですが、両軍は膠着状態となり和平交渉が持たれることになったのであります。

 遼は領土の割譲を求めて来たのですが、北宋としてはこれ以上領土を削るのは無理と金銭による和平交渉となりました。北宋側の使者、曹利用に文殊奴は100万両まで出しても良いと伝えたのですが、その裏で寇準は曹利用に30万を超えたら斬ると脅しを入れていたのであります。交渉は30万両で決着が付きました。曹利用が文殊奴の元に戻り、交渉結果の額として指3本を出しました。これを見た文殊奴は300万と思い驚いたのですが、30万と聞いて安心したという逸話が残されています。

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2012年2月 2日 (木)

1003年

 西暦1003年、ウンベルト・ビアンカマーノがサヴォイア伯に任じられました。彼はサヴォイア家の祖となります。

 西暦980年、ウンベルトはサヴォワ地方モーリエンヌの貴族の元に生まれました。ビアンカマーノとはイタリア語で白い手という意味で、潔白を示す尊称であります。

 ブルグント王のルドルフ3世と神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ2世が争ったとき、ウンベルトは縁戚にあたるハインリヒ2世を助けました。西暦1003年、ウンベルトはハインリヒ2世からその功績を認められサヴォイア伯に任命されたのであります。

 これによりウンベルトはハインリヒ2世の家臣となり、イタリアのアオスタやブルゴーニュを任せられるようになりました。翌年ハインリヒ2世がイタリアに侵攻すると、ウンベルトの軍も加担します。ウンベルトはイタリアの血筋に加え、オック人やサクソン人の貴族とも血縁関係にありました。サクソン人との血縁については、ザクセン戦争の英雄ウィドゥキントの流れを引いています。ハインリヒ2世を助けることになったのは、ウィドゥキントがザクセン朝の祖でもあるからであります。

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2012年2月 1日 (水)

1002年

 西暦1002年、紫式部が源氏物語を書き始めました。世界最古の長編小説とされます。

 54帖、100万文字に及ぶ源氏物語は500名もが登場する70年に及ぶ長編小説であります。20世紀に入り英訳され、欧米社会でも高く評価されています。

 天皇の親王として出生したのですが、臣籍降下して源氏姓となった才能にも容姿にもめぐまれた光源氏の栄華と苦悩の人生を描くこの物語は、以下の3部構成となっています。

・第1部:光源氏が恋愛遍歴を重ねながら栄誉を極める前半生
・第2部:無常を覚え出家を志す後半生と、源氏をとりまく子女の恋愛
・第3部:光源氏が没した後の子孫たちの恋愛

 物語は光源氏の母、桐壺から始まります。

 いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

 この冒頭を読むだけで、平安朝中期の王朝世界のきらびやかな舞台に引き込まれそうです。与謝野晶子は次のように現代語に訳しています。

 どの天皇様の御代(みよ)であったか、女御(にょご)とか更衣(こうい)とかいわれる後宮(こうきゅう)がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵(あいちょう)を得ている人があった。

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