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2021年1月31日 (日)

108つの煩悩(31)

 108つの煩悩の三十一番目は、

道締見取見(どうたいけんしゅけん)

である。道締と見取見でできた言葉である。九つ目、十七番目、二十四番目の煩悩と同じく見取見に関わる煩悩である。道締が苦しみを消滅させるに至る道であるから、道締見取見とは、間違った考えを優れていると考えることを辞める道があるのに、そこに行かず苦しむということになる。

 仏教は全ての人に救われる道を示すことができるという。悪人にも救われる道があるそうだ。それを知ったのにも関わらず、悪を続けていれば救われようはない。

 

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2021年1月30日 (土)

108つの煩悩(30)

 108つの煩悩の三十番目は、

道締邪見(どうたいじゃけん)

である。道締と邪見が合わさった言葉である。八つ目、十六番目、二十三番目の煩悩と同じく邪見に関わる煩悩である。道締は苦しみの消滅に至る道という意味なので、道締邪見とは、間違った考え方を辞めれば苦しみも無くなるのに辞めようとせず苦しむという意味になる。

 おかしな考えとわかっていながら、そのおかしな考えに固執することはないだろうか。素直に正しい考え方に触れてみよう。

 

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2021年1月29日 (金)

108つの煩悩(29)

 108つの煩悩の二十九番目は、

道締疑(どうたいぎ )

である。道締と疑が組み合わさった言葉である。五つ目、十五番目、二十二番目の煩悩と同じく疑に関わる煩悩である。道締が苦しみを無くすための道なので、道締疑とは、真理を疑うことを辞めれば苦しみが無くなるのがわかっていても、それをやらずに苦しむことである。

 おかしなことに疑いを持つのは当然である。しかし、真理は素直に信じることも重要である。

 

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2021年1月28日 (木)

108つの煩悩(28)

 108つの煩悩の二十八番目は、

道締慢(どうたいまん)

である。道締と慢の合成語である。四つ目、十四番目、二十一番目の煩悩と同じく慢に関わる煩悩である。道締が苦しみを消滅するに至る道なので、道締慢とは、おごりを無くす道があるのにおごったままでいて苦しむことである。

 上から目線を辞める、少し謙虚になってみる、ただそれだけで苦しみが減るのがわかっているのに、人を見下すのを辞めない人は苦しみから救われない。人より優れているのではなく、自分に勝たなければならないのに。

 

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2021年1月27日 (水)

108つの煩悩(27)

 108つの煩悩の二十七番目は、

道締癡(どうたいち)

である。道締と癡でできた言葉である。三つ目、十三番目、二十番目の煩悩と同じく癡に関わる煩悩である。道締が苦しみが無くなる道なので、道締癡とは、無知を無くす道があるのに勉強せず苦しむという意味になる。

 勉強することが煩悩ではなく、勉強すれば良いとわかっていて勉強しないことが煩悩なのである。勉強すれば苦しみは無くなる。

 

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2021年1月26日 (火)

108つの煩悩(26)

 108つの煩悩の二十六番目は、

道締瞋(どうたいしん)

である。道締と瞋が組み合わさってできた言葉である。二つ目、十二番目、十九番目の煩悩と同じく瞋に関わる煩悩である。道締が苦しみが消滅に至る道という意味なので、道締瞋とは、怒りを無くす道があるのに、それをやらずに苦しむということである。

 最近、アンガーマネジメントという手法が流行っている。怒りをコントロールする手法があるのに、見向きもせず怒りに任せていては苦しみは無くならない。

 

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2021年1月25日 (月)

108つの煩悩(25)

 108つの煩悩の二十五番目は、

道締貪 (どうたいとん)

である。道締と貪の合成語である。一つ目、十一番目、十八番目の煩悩と同じく貪に関わる煩悩である。それでは、道締とはどういう意味だろうか。

 道締とは、苦しみが消滅に至る道という意味である。よって、道締貪とは、必要以上の欲望を消すための道があるのがわかっていても、その道に行けない苦しみということになる。

 

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2021年1月24日 (日)

108つの煩悩(24)

 108つの煩悩の二十四番目は、

滅締見取見(めったいけんしゅけん)

である。滅締と見取見でできた言葉である。九つ目の煩悩の苦締見取見や十七番目の煩悩の集締見取見と同じく、見取見(間違った考え方を優れていると思う)に係る煩悩である。したがって、滅締見取見とは、間違った考え方を優れていると思うことを辞めれば苦しみが無くなるのがわかっていながら、それを辞められず苦しむということである。

 邪見の間違った考え方とは、因果応報を知らないということである。因果応報を知らないことが優れているとは荒唐無稽な発想と思うものの、われわれの考え方はこのようなものである。

 

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2021年1月23日 (土)

108つの煩悩(23)

 108つの煩悩の二十三番目は、

滅締邪見(めったいじゃけん)

である。滅締と邪見が合わさった言葉である。八つ目の煩悩の苦締邪見や十六番目の煩悩の集締邪見と同じく、邪見(間違った考え方)に関わる煩悩である。つまり、滅締邪見とは、間違った考え方を辞めれば苦しみが消滅するのがわかっていながら、間違った考え方を辞められない苦しみという意味である。

 こんな考え方をしていても救われないとわかってはいるものの、その考え方を変えられない煩悩である。思い当たるところはないだろうか。

 

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2021年1月22日 (金)

108つの煩悩(22)

 108つの煩悩の二十二番目は、

滅締疑(めったいぎ)

である。滅締と疑の合成語である。五つ目の煩悩の苦締疑や十五番目の煩悩の集締疑と同じく、疑(真理を疑う)に関わる煩悩である。よって、滅締疑とは、真理を疑うことを辞めれば苦しみが消滅するのに、それができず疑を辞められない苦しみということである。

 疑うことはときには重要である。しかし、疑ってはいけないこともある。何を疑ってはいけないのかわからないのは確かに苦しい。

 

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2021年1月21日 (木)

108つの煩悩(21)

 108つの煩悩の二十一番目は、

滅締慢(めったいまん)

である。滅締と慢でできた言葉である。四つ目の煩悩の苦締慢や十四番目の煩悩の集締慢と同じく、慢(おごり)に関わる煩悩である。したがって、滅締慢とは、苦しみが消滅する滅締と慢が合わさり、傲慢さが無くなれば苦しみがなくのるのがわかっていながら、傲慢を無くせない苦しみということになる。

 誰でも傲慢でいて良いとは思わないだろう。それがわかっていながら、自身の傲慢さを無くす努力をしていない。謙虚であれとはいわない。傲慢であるなといっているのである。

 

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2021年1月20日 (水)

108つの煩悩(20)

 108つの煩悩の二十番目は、

滅締癡(めったいち)

である。滅締と癡が合わさった言葉である。三つ目の煩悩の苦締癡や十三番目の煩悩の集締癡と同じく、癡(無知)に関わる煩悩である。滅締癡とは、苦しみが消滅するという滅締と癡が合わさって、無知が無くなれば苦しみがなくなるのに、無知を解消できない苦しみという意味である。

 わかっていても愚痴をいう。勉強すればよいことはわかっていながら勉強しない。こういう行動が煩悩を生むのである。

 

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2021年1月19日 (火)

108つの煩悩(19)

 108つの煩悩の十九番目は、

滅締瞋(めったいしん)

である。滅締と瞋の合成語である。二つ目の煩悩の苦締瞋や十二番目の煩悩の集締瞋と同じく、瞋(怒り)に関する煩悩である。滅締が苦しみが消滅するという意味なので、滅締瞋とは、怒りが無くなれば苦しみがなくなるのがわかっていても、無くせなくて苦しむということになる。

 確かに、強い怒りが続くと苦しい。怒るのを止めれば苦しみもなくなるとわかっていても、いら立ちを消すことができず苦しみ続けるのは人の煩悩である。

 

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2021年1月18日 (月)

108つの煩悩(18)

 108つの煩悩の十八番目は、

滅締貪(めったいとん)

である。滅締と貪で組み合わさった言葉である。一つ目の煩悩の苦締貪や十一番目の煩悩の集締貪と同じく、貪シリーズの煩悩である。それでは、滅締とはどういう意味だろうか。

 滅締とは、苦しみが消滅するということである。したがって、滅締貪とは必要以上の欲望が消滅するという意味になる。しかし、煩悩であるから必要以上の欲望が消滅すれば苦しみがなくなるのがわかっていても、やめられない苦しみということになるだろう。

 

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2021年1月17日 (日)

108つの煩悩(17)

 108つの煩悩の十七番目は、

集締見取見(じったいけんしゅけん)

である。集締と見取見でできた言葉である。九つ目の煩悩の苦締見取見の苦締が集締に代わった形になっている。したがって、間違った考え方を誤って勝れた考え方と思うことが苦しみの原因という意味になる。

 間違った考え方とは、有身見、辺執見、邪見の三見である。この三見のうち集締では、有身見と辺執見が現れないので、ここでいう誤った考えというのは邪見を指す。邪見とは単に間違った考えということではなく、仏教が教える「因果」を受け入れないということである。それほど、因果の教えは重要なのである。

 

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2021年1月16日 (土)

108つの煩悩(16)

 108つの煩悩の十六番目は、

集締邪見(じったいじゃけん )

である。集締と邪見の合成語である。六つ目の煩悩は苦締有身見なので集締有身見と思いきや、八つ目の苦締邪見の苦締が集締に代わった言葉である。意味としては、間違った考えが苦しみの原因ということである。

 苦締には五悪見の有身見、辺執見、邪見、見取見、戒禁取見、全てが登場する。集締で、有身見、辺執見を採用せず邪見から始まるのは、それほど邪見がひどいということだと考えられる。

 

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2021年1月15日 (金)

108つの煩悩(15)

 108つの煩悩の十五番目は、

集締疑(じったいぎ)

である。集締と疑でできた言葉である。五つ目の煩悩の苦締疑の苦締が集締に代わっているのがわかる。すなわち、集締疑とは、真実を疑うことが苦しみの原因という意味になる。

 疑うことは重要なことで、疑う能力があるから騙されずに済む。しかし、真実まで疑ってしまえば、それは苦しみとなってしまう。どうすれば真実か嘘かを見抜くことができるだろうか。まずは、多くの真実に触れ、それら真実を信じることである。

 

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2021年1月14日 (木)

108つの煩悩(14)

 108つの煩悩の十四番目は、

集締慢(じったいまん)

である。集締と慢が合わさった言葉である。四つ目の煩悩の苦締慢の苦締が集締に代わった形である。よって、集締慢とは、おごりが苦しみの原因ということである。

 上から目線が嫌われるのは、煩悩の原因だからということになる。謙虚に徹するのが必ずしも良いとは思えないが、高慢でいて良いことは何もない。

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2021年1月13日 (水)

108つの煩悩(13)

 108つの煩悩の十三番目は、

集締癡(じったいち)

である。集締と癡で合成された言葉である。三つ目の煩悩の苦締癡の苦締が集締に代わっている。つまり、
集締癡とは、無知が苦しみの原因という意味である。

 貪、瞋、癡は三毒である。三毒が悪の根源であり、三毒から十悪が生まれる。十悪とは、殺生、偸盗、邪婬、妄語、綺語、悪口、両舌、慳貪、瞋恚、邪見という人間のわかりやすい醜さである。

 

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2021年1月12日 (火)

108つの煩悩(12)

 108つの煩悩の十二番目は

集締瞋(じったいしん)

である。集締と瞋でできた言葉である。二つ目の煩悩の苦締瞋の苦締が集締に代わったものになる。集締は苦には原因があるという真理という意味だった。よって、集締瞋とは、「瞋」が苦しみの原因という意味になる。

 瞋とは、苦締瞋で説明した通り「怒り」である。怒りの他、恨み、憎しみの意味もある。現代人は怒りと恨みは別の意味だと思っているものの、仏教では同じものになっている。

 

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2021年1月11日 (月)

108つの煩悩(11)

 108つの煩悩の十一番目は、

集締貪(じったいとん)

である。集締と貪の合わせ言葉になる。一つ目の煩悩の苦締貪の苦締が集締に代わった形だ。それでは、集締とはどういう意味だろうか。

 苦締や集締の「締」は、諦めるという意味ではなく、真理という意味である。したがって、苦締は苦しいという真理ということで、人生は苦しいという真理ということである。集締の「集」は集めるという意味ではなく、原因といういみである。したがって、集締は苦には原因があるという真理ということになる。

 よって、集締貪とは、人生が苦しい原因は必要以上に求めるからだということである。欲望が苦しみの原因なのだ。

 

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2021年1月10日 (日)

108つの煩悩(10)

 108つの煩悩の十番目は、

苦締戒禁取見(くたいかいごんしゅけん)

である。これまでと同じく、苦締と戒禁取見の合成である。戒禁取見とは、誤った教えを信じることである。仏教で教えとは悟りを開く方法なので、誤った教えで悟りを開くことというのが本来の意味である。したがって、苦締戒禁取見とは、誤った教えで悟りを開こうとして苦しむということである。

 有身見、辺執見、邪見、見取見、戒禁取見の五つを五悪見という。五毒と五悪見が煩悩の中核を成すものであり、煩悩の半分が考え方、見方に起因するのである。フェイクニュースも人間の煩悩といえる。

 

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2021年1月 9日 (土)

108つの煩悩(9)

 108つの煩悩の九つ目は、

苦締見取見(くたいけんしゅけん)

である。苦締と見取見でどんな意味だろうか。見取見とは、間違った見解を誤って勝れた見解とする見解である。間違った見解とは、有身見、辺見、邪見の三見を指す。これが見取見の最初の「見」で、「取」は執われているという意味で、最後の「見」が見解である。よって苦締見取見とは、間違った考え方を優れていると思って苦しむという意味になる。

 有身見、辺見、邪見それぞれが煩悩であり、それらを優れていると考えるのも煩悩である。ものの見方、考え方自体が煩悩に繋がるのだ。

 

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2021年1月 8日 (金)

108つの煩悩(8)

 108つの煩悩の八つ目は、

苦締邪見(くたいじゃけん)

である。苦締と邪見が合わさった煩悩はどんなものだろうか。邪見とは、間違った見解である。悪見ともいう。したがって、苦締邪見とは間違った見解に苦しむということになる。正しい見解は正見(しょうけん)であり、仏教では正見が求められる。

 悟りを開くためには、八正道(はっしょうどう)を実践しなければならない。八正道で最初に挙げらえれているのが、正見である。涅槃に至る第一歩は、正しい見解を持つことなのだ。

 

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2021年1月 7日 (木)

108つの煩悩(7)

 108つの煩悩の七つ目は、

苦締辺執見(くたいへんじっけん)

である。苦締と辺執見で造られた言葉である。辺執見とは、極端に片寄った考え方(見解)ということで、仏教での極端に片寄った見解とは、自分の死後は無になると考える見解と死後も有りつづけると考える見解のどちらかをいう。

 無になる考え方を断見といい、有りつづける考え方を常見という。仏教ではどちらでもないことを説いている。すなわち、死して全て無に帰すのではなく、魂が永久不滅でもないという中庸の教えである。

 

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2021年1月 6日 (水)

108つの煩悩(6)

 108つの煩悩の六つ目は、

苦締有身見(くたいうけんしん)

である。苦締と有身見から成る言葉である。有身見とは、仏教が説く「空」に対する概念である。仏教の空とは、無我ということである。ところが、われわれ人間には自我がある。この自我あるという思いを「有身」と呼び、そういう見解なので有身見と名付けられた。

 有身見のおかげで、事象に関し所有に執われてしまう。苦締有身見とは、所有に執われ苦しむということである。所有することは煩悩なのである。

 

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2021年1月 5日 (火)

108つの煩悩(5)

 108つの煩悩の五つ目は、

苦締疑(くたいぎ)

である。苦締と疑の合成語である。疑とは、単に疑うという意味ではなく、正しいこと(正しくは仏教が教える真理)を疑うということである。よって、苦締疑は、正しいことを疑ってしまい教えを受け入れられず苦しむということになる。

 貪、瞋、痴を三毒と呼んだように、これに慢と疑を加えたものを五毒と呼ぶ。必要以上に欲しがり、怒り、愚かであるのに、思い上がり、正しいことを疑うのが人間なのである。

 

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2021年1月 4日 (月)

108つの煩悩(4)

 108つの煩悩四つ目は、

苦締慢(くたいまん)

である。苦締と慢でできた言葉である。慢とは、他人と比較して自分を過剰評価して思い上がることである。苦締慢とは、おごり高ぶりに苦しむということである。

 また、慢は、慢、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、卑慢、邪慢の七慢の総称でもある。七慢の慢とは、自分より劣る人に対するうぬぼれ、過慢とは、自分と同等の人に対して自分が勝っているといううぬぼれ、慢過慢とは、自分が勝っている人を見て更に自分が勝っているといううぬぼれ、我慢とは、自分が偉いといううぬぼれ、増上慢とは、悟っていないのに悟ったとおごるうぬぼれ、卑慢とは、非常に勝れている人に対して自分は少し劣っていると思うこと、邪慢とは、間違った行為を正しいと言い張ることである。

 

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2021年1月 3日 (日)

108つの煩悩(3)

 108つの煩悩の三つめは、

苦締癡(くたいち)

である。これまでと同じく、苦締と癡の合成である。癡とは愚痴のことである。よって、苦締癡は愚痴の苦しみとうことになる。癡は、一つ目、二つ目の貪、瞋と合わせて三毒と呼ばれ、根本的な煩悩である。人間は、貪瞋癡の三毒に苦しめられているのである。

 ただし、愚痴というのは、いわゆる愚痴をいう、という意味ではなく、真理を知らない無知、すなわち、おろかさを意味する。人間は、必要以上に欲しがり、怒り、愚かという煩悩に苦しめられるということだ。

 

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2021年1月 2日 (土)

108つの煩悩(2)

 108つの煩悩の二つ目は、

苦締瞋(くたいしん)

である。苦締貪と同じく、苦締と瞋に分かれる。瞋とは、怒りのことである。つまり、苦締瞋とは、怒りに苦しむということである。

 諸君は何に怒っているだろうか?僕もいろんなことに憤りを覚えることがある。怒りは時にエネルギーの元になることもある。怒りをバネとして頑張る。苦締貪もエネルギーの元だろう。欲しい気持ちがあるから頑張ることもある。人間は煩悩の塊りであり、煩悩を糧として生きている。今回の108つの煩悩を一つ一つ見ていくのは、人間をよりよく理解しようという試みと思って欲しい。

 何かで聞いたことで、歳を取って老いて丸くなるより、何かに怒っている方がボケないそうだ。本当かどうかはこれからわかると思っている。

 

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2021年1月 1日 (金)

108つの煩悩(1)

 明けましておめでとうございます。諸君は新年を迎え、期待に胸を膨らませていることだと思う。その感じは、何歳になっても訪れるものである。正月はめでたい。

 さて、今日から嗜好を変えて108日間だけ、これまで解説してきた専門分野の内容を離れ、人間が持つという108つの煩悩について1日一つのペースで考えて行きたい。108日後は授業が始まる頃なので、それまで教養を深めるという意味でお付き合い願いたい。

 108つの煩悩の一つ目は、

苦締貪(くたいとん)

である。苦締貪は苦締と貪の合成語である。苦締とは、人生が苦であるということである。そして、貪とは貪欲ということで、必要以上に求めるということである。したがって、苦締貪とは必要以上に求める苦しみということで、いわゆる執着心ということになる。諸君の苦締貪は?

 

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