108つの煩悩(90)
108つの煩悩の九十番目は、
修惑欲界瞋(しゅわくよくかいしん)
である。修惑と欲界と瞋が組み合わさった言葉である。人が生まれながらに持っている煩悩の欲界における怒りという意味である。
野良の赤ちゃん猫は、人が手を出すと牙を剥いて怒る。怒りの感情とは動物と変わらず、人が持つ根源の煩悩の一つなのだ。
108つの煩悩の九十番目は、
修惑欲界瞋(しゅわくよくかいしん)
である。修惑と欲界と瞋が組み合わさった言葉である。人が生まれながらに持っている煩悩の欲界における怒りという意味である。
野良の赤ちゃん猫は、人が手を出すと牙を剥いて怒る。怒りの感情とは動物と変わらず、人が持つ根源の煩悩の一つなのだ。
108つの煩悩の八十九番目は、
修惑欲界貪(しゅわくよくかいとん)
である。修惑と欲界と貪の合成語である。修惑とは、人が生まれながらに持っている煩悩という意味である。したがって、修惑欲界貪とは、人が生まれながらに持っている欲界での必要以上に求める欲望ということである。
煩悩の始まりは、必要以上に求めるところから来るようである。足るを知ることができれば、人は救われる。
108つの煩悩の八十八番目は、
無色界道締戒禁取見(むしきかいどうたいかいごんしゅけん)
である。無色界と道締ご戒禁取見が組み合わさってできた言葉である。三十二番目の煩悩の道締戒禁取見の無色界版で、無色界での道締戒禁取見を現わしている。
無色界道締戒禁取見とは、誤った教えで悟りを開くのを辞めて正しい教えを実践しなければならないのに、誤った教えを辞めようとせず無色界で苦しむという意味である。欲界を克服し色界を超えて無色界まで来たのは悟りを開くためである。その無色界で悟りを開くことができないことがわかっていながら、誤った教えを信じ続けるのが人間なのだろう。
108つの煩悩の八十七番目は、
無色界道締見取見(むしきかいどうたいけんしゅけん)
である。無色界と道締と見取見の合成語である。三十一番目の煩悩の道締見取見に無色界を冠し、無色界での道締見取見を示している。
無色界道締見取見とは、間違った考えを優れていると考えることを辞める道があるのに、そこに行かずに無色界で苦しむという意味である。精神世界の無色界に行った人なら自分の考えが間違っているとわかっているはずなのに、それが辞められないのが人の煩悩なのだ。
108つの煩悩の八十六番目は、
無色界道締邪見(むしきかいどうたいじゃけん)
である。無色界と道締と邪見が合わさってできた言葉である。三十番目の煩悩の道締邪見に無色界を付け、無色界での道締邪見を報じている。
無色界道締邪見とは、間違った考え方を辞めれば苦しみも無くなるのに辞めようとせず、無色界で苦しむということである。無色界とは人が到達する最高の世界であるにも関わらず、人はこのようなことで苦しむのである。
108つの煩悩の八十五番目は、
無色界道締疑(むしきかいどうたいぎ)
である。無色界と道締と疑が組み合わさってできた言葉である。二十九番目の煩悩の道締疑の無色界版で、無色界での道締疑を訴えている。
無色界道締疑とは、真理を疑うことを辞めれば苦しみが無くなるのがわかっていても、それをやらずに無色界で苦しむという意味である。精神世界で疑うのを辞めるのは難しいのだろうか。
108つの煩悩の八十四番目は、
無色界道締慢(むしきかいどうたいまん)
である。無色界と道締と慢による合成語である。二十八番目の道締慢に無色界を加えて、無色界での道締慢を嘆いている。
無色界道締慢とは、おごりを無くす道があるのにおごったままでいる無色界での苦しみという意味である。欲界と色界を克服したからころ、精神世界の無色界で驕るのだろうか。精神世界でこそ謙虚でいなければいけないのに。
108つの煩悩の八十三番目は、
無色界道締癡(むしきかいどうたいち)
である。無色界と道締と癡が合わさってできた言葉である。二十七番目の煩悩の道締癡に無色界を冠して、無色界での道締癡を警告している。
無色界道締癡とは、無知を無くす道があるのに勉強せず無色界で苦しむということである。精神世界での無知は苦しく、しかも努力しないで無知のままでいることはさぞ苦しいことだろう。
108つの煩悩の八十二番目は、
無色界道締貪(むしきかいどうたいとん)
である。無色界と道締と貪の合成語である。二十五番目の煩悩の道締貪の無色界版で、無色界での道締貪を訴えている。
無色界道締貪とは、必要以上の欲望を消すための道があるのがわかっていても、その道に行けない無色界での苦しみという意味である。精神世界で必要以上に求める貪が解消されないのは苦しい。
108つの煩悩の八十一番目は、
無色界滅締見取見(むしきかいめったいけんしゅけん)
である。無色界と滅締と見取見が組み合わさってできた言葉である。二十四番目の煩悩の滅締見取見に無色界を付け、無色界での滅締見取見を現わしている。
無色界滅締見取見とは、間違った考え方を優れていると思うことを辞めれば苦しみが無くなるのがわかっていながら、無色界でそれを辞められず苦しむという意味である。欲界と色界を超えても、間違った考え方を優れていると思っていては救われない。
108つの煩悩の八十番目は、
無色界滅締邪見(むしきかいめったいじゃけん)
である。無色界と滅締と邪見による合成語である。二十三番目の煩悩の滅締邪見に無色界を冠し、無色界での滅締邪見を訴えている。
無色界滅締邪見とは、間違った考え方を辞めれば苦しみが消滅するのがわかっていながら、間違った考え方を辞められない無色界での苦しみということである。欲界と色界を克服して到達した無色界にいながら、間違った考え方をしていてそれがわかっているのは苦しいことである。
108つの煩悩の七十九番目は、
無色界滅締疑(むしきかいめったいぎ)
である。無色界と滅締と疑が合わさってできた言葉である。二十二番目の煩悩の滅締疑の無色界版で、無色界での滅締疑を警告している。
無色界滅締疑とは、真理を疑うことを辞めれば苦しみが消滅するのに、それができず疑を辞められない無色界での苦しみという意味である。精神世界の無色界で疑うという精神が辞められないことは、とても苦しい。
108つの煩悩の七十八番目は、
無色界滅締慢(むしきかいめったいまん)
である。無色界と滅締と慢の合成語である。二十一番目の煩悩の滅締慢に無色界を付けて、無色界での滅締慢を警告している。
無色界滅締慢とは、傲慢さが無くなれば苦しみがなくのるのがわかっていながら、傲慢を無くせない無色界での苦しみという意味である。欲界と色界を克服できても、自身の傲慢さが克服できないのが人間なのだ。
108つの煩悩の七十七番目は、
無色界滅締癡(むしきかいめったいち)
である。無色界と滅締と癡が組み合わさった言葉である。二十番目の煩悩の滅締癡に無視界を付して、無色界での滅締癡を訴えている。
無色界滅締癡とは、無色界で無知が無くなれば苦しみがなくなるのがわかっていながら無知を解消できない苦しみということである。精神世界での無知は苦しいに違いない。
108つの煩悩の七十六番目は、
無色界滅締貪(むしきかいめったいとん)
である。無色界と滅締と貪でできた言葉である。十八番目の煩悩の滅諦貪に無色界を冠し、無色界での滅諦貪を現わしている。
無色界滅締貪とは、無色界でも必要以上の欲望が消滅すれば苦しみがなくなるのがわかっていてもやめられない苦しみという意味である。欲界や色界を克服してやって来た無色界で、わかっていながらやめられないのはさぞ苦しいことだろう。
108つの煩悩の七十五番目は、
無色界集締見取見(むしきかいじったいけんしゅけん)
である。無色界と集締と見取見からなる合成語である。十七番目の煩悩の集締見取見の無色界版で、無色界での集締見取見を嘆いている。
無色界集締見取見とは、精神世界の無色界で間違った考え方を誤って勝れた考え方と思うことが苦しみの原因ということである。無色界でも、自分が正しく他人が間違っていると思っていれば苦しみからは逃れられないのである。
108つの煩悩の七十四番目は、
無色界集締邪見(むしきかいじったいじゃけん)
である。無色界と集締と邪見が組み合わさった合成語である。十六番目の煩悩の集締邪見に無色界を付して、無色界での集締邪見を現わしている。
無色界集締邪見とは、欲界と色界を克服した無色界でも、間違った考えが苦しみの原因という意味である。間違った考え方で欲界や色界を超えても、苦しみは続くのである。
108つの煩悩の七十三番目は、
無色界集締疑(むしきかいじったいぎ)
である。無色界と集締と疑が合わさってできた言葉である。十五番目の煩悩の集締疑に無色界を冠し、無色界での集締疑を訴えている。
無色界集締疑とは、精神世界の無色界でも真実を疑うことが苦しみの原因ということである。欲界を克服し色界を超えて来た無色界で、なおも真理を疑っていれば苦しむに違いない
108つの煩悩の七十二番目は、
無色界集締慢(むしきかいじったいまん)
である。無色界と集締と慢が組み合わさってできた言葉である。十四番目の煩悩の集締慢の無色界版で、無色界での集締慢を警告している。
無色界集締慢とは、欲界や色界を超えた無色界でも、おごりが苦しみの原因という意味である。精神世界でおごっていれば救いようがないかも知れない。
108つの煩悩の七十一番目は、
無色界集締癡(むしきかいじったいち)
である。無色界と集締と癡が合わさった合成語である。十三番目の煩悩の集締癡に無色界を付け、無色界での集締癡を嘆いている。
無色界集締癡とは、精神世界の無色界でも無知が苦しみの原因という意味である。精神世界で無知であれば、それは苦しみでしかない。
108つの煩悩の七十番目は、
無色界集締貪(むしきかいじったいとん)
である。無色界と集締と貪からな成る合成語である。十一番目の煩悩の集締貪に無色界を冠し、無色界での集締貪を訴えている。
無色界集締貪とは、欲界や色界を克服した無色界でも、苦しみの原因は必要以上に求めるからという意味である。精神世界でも求めすぎれば苦しむのである。
108つの煩悩の六十九番目は、
無色界苦締戒禁取見(むしきかいくたいかいごんしゅけん)
である。無色界と苦締と戒禁取見が組み合わさってできた言葉である。十番目の煩悩の苦締戒禁取見の無色界版で、無色界での苦締戒禁取見を現わしている。
無色界苦締戒禁取見とは、精神世界の無色界で、誤った教えで悟りを開こうとして苦しむという意味である。欲界を克服し、色界を超えて来た無色界でも、誤った教えを信じていては救われない。
108つの煩悩の六十八番目は、
無色界苦締見取見(むしきかいくたいけんしゅけん)
である。無色界と苦締と見取見による合成語である。九つ目の煩悩の苦締見取見に無色界を付けて、無色界の苦締見取見を説明している。
無色界苦締見取見とは、無色界でも間違った考え方を優れていると思って苦しむという意味である。精神世界の無色界にいたとしても、正しい考え方をしれいなければ苦しいままなのである。
108つの煩悩の六十七番目は、
無色界苦締邪見(むしきかいくたいじゃけん)
である。無色界と苦締と邪見で造られた言葉である。八つ目の煩悩の苦締邪見に無視界を冠し、無色界の苦締邪見を表現している。
無色界苦締邪見とは、精神世界の無色界でも、間違った考え方で苦しむという意味である。欲界を克服し、色界を超え、無色界に来たとしても、間違った考え方をしていれば救われない。
108つの煩悩の六十六番目は、
無色界苦締辺執見(むしきかいくたいへんじっけん)
である。無色界と苦締と辺執見が合わさった言葉である。七つ目の煩悩の苦締辺執見の無色界版で、無色界の苦締辺執見を訴えている。
無色界辺執見とは、欲界から色界を克服し無色界に行っても、極端に片寄った考え方に固執して苦しむという意味である。精神世界の無色界だからこそ、死後は無に帰すと考えるか、死後も魂は永遠に在り続けると考えるかのどちらかになるのだろうか。精神世界だからこそ、死後は無に帰すのではなく魂が永久不滅でもないという中庸の考えに到達しなければならないのに。
108つの煩悩の六十五番目は、
無色界苦締有身見 (むしきかいくたいうしんけん)
である。無色界と苦締と有身見が組み合わさってできた言葉である。六つ目の煩悩の苦締有身見に無色界を付して、無色界での苦締有身見を警告している。
無色界苦締有身見とは、精神世界の無色界で所有に執われ苦しむという意味である。淫欲や食欲を絶ち、物質への欲望を克服した者でも所有するものはあり、人はその所有に苦しむのである。
108つの煩悩の六十四番目は、
無色界苦締疑(むしきかいくたいぎ)
である。無色界と苦締と疑を組み合わせた言葉である。五つ目の煩悩の苦締疑に無色界を冠して、無色界での苦締疑を現わしている。
無色界苦締疑とは、無色界でも正しいことを疑って教えを受け入れられず苦しむという意味である。精神世界でも、信じることができなければ苦しむのである。
108つの煩悩の六十三番目は、
無色界苦締慢 (むしきかいくたいまん)
である。無色界と苦締と慢が合わさってできた言葉である。四つ目の煩悩の苦締慢の無色界版で、無色界での苦締慢を嘆いている。
無色界苦締慢とは、欲界を絶ち、色界を超えて到達した無色界でも、おごり高ぶりに苦しむという意味である。精神だけの世界、つまり仙人になっても人は自分を他人と比べて優越感を持って苦しむのである。
108つの煩悩の六十二番目は、
無色界苦締癡(むしきかいくたいち)
である。無色界と苦締と癡の合成語である。三つ目の煩悩の苦締癡に無色界を付けて、無色界での苦締癡を現わしている。色界から、二つ目の煩悩の苦締瞋が出て来ないのは、欲界を絶てば怒りも無くなるということだろうか。
無色界苦締癡とは、無色界でも真理を知らない無知で苦しむという意味である。欲界を絶ち、色界へ行き、更に精神だけの世界に到達した者でさえ、真理を知らない無知であれば苦しむのである。
108つの煩悩の六十一番目は、
無色界苦締貪(むしきかいくたいとん)
である。無色界と苦締と貪が組み合わさってできた言葉である。一つ目の煩悩の苦締貪に無色界を冠しているので、無色界での苦締貪ということがわかる。無色界とは、色界の上にあり、無色というように物質から解放され精神だけの者が住む世界である。
無色界苦締貪とは、無色界での苦締貪という煩悩である。つまり、物質から解放された精神だけの世界でも、必要以上に求める苦しみがあるということである。
108つの煩悩の六十番目は、
色界道締戒禁取見(しきかいどうたいかいごんしゅけん)
である。色界と道締と戒禁取見の合成語である。三十二番目の煩悩の道締戒禁取見に色界を付して、色界での道締戒禁取見を訴えている。
色界道締戒禁取見とは、色界においても、誤った教えを信じるのを辞め正しい教えを実践すれば苦しみはなくなるのに、誤った教えを辞めようとせず苦しむという意味である。インターネットの記事は校閲を受けていないものが多く、正しいことを勉強するには査読付き論文や大手出版社の文献で勉強しなければならない。それがわかっていて、ネットの記事だけを信用すれば苦しみは続く。
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