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<description>2005/12/25～1000話まで雑談
2008/12/31～前向き四字熟語　　　　
2009/05/05～１日１年世界の歴史
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<title>２３６年</title>
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<description>　西暦２３６年、三国志とローマ帝国の中間地、インドでサータヴァーハナ朝が滅亡しま...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　西暦２３６年、三国志とローマ帝国の中間地、インドでサータヴァーハナ朝が滅亡しました。武勇の王ガウタミープトラ・シャータカルニがマハーラージャとして即位した王朝でした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　紀元前３世紀頃、インド大陸を統一していたアショーカ王の崩御後、混乱するマウリア朝の中で、アーンドラ人がデカン高原西部にサータヴァーハナ朝を立てました。その後次第に勢力を伸ばし、１世紀までには中央インド随一の大国へと成長したのであります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　２世紀になりガウタミープトラ・シャータカルニ王が現れると、西クシャトラパを倒し、西北デカンの地を制覇し、デカン高原全土まで領域を拡大し最盛期を迎えます。ガウタミープトラ・シャータカルニ王になって、初めて大王（マハーラージャ）、諸王の王（ラージャラージャ）という称号が使われるようになりました。この時代、ローマ帝国はパックス・ロマーナと呼ばれる平和な時代ですが、サータヴァーハナ朝はローマ帝国と盛んに海上交易を行い商業が発達していました。この時期のサータヴァーハナ朝遺跡からは、ローマ貨幣が出土することで有名であります。サータヴァーハナ王家は、バラモン出身であることを誇っていました。バラモンとは、カースト制度の頂点に位置するバラモン教の司祭階級の総称であります。紀元前１３世紀頃、西から来たアーリア人が原住民族のドラヴィダ人を支配するためにカースト制度を作り出したのですが、アーリア人は自らを最高位の司祭に置き、ブラーフマナ・バラモンと称したことに由来します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　３世紀に入ると、サータヴァーハナ朝の統率力が弱まり、地方の王族や諸侯が各地で自立し始めます。そして、西暦２３６年、最後の王の在位最終年となり、次代が記録に残っておらず、ここにサータヴァーハナ朝は終焉を迎えたのであります。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>歴史</dc:subject>

<dc:creator>Toshio Ito</dc:creator>
<dc:date>2009-12-27T00:00:00+09:00</dc:date>
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<title>２３５年</title>
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<description>　西暦２３５年、第２４代ローマ皇帝アレクサンデル・セウェルスが崩御します。次代は...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　西暦２３５年、第２４代ローマ皇帝アレクサンデル・セウェルスが崩御します。次代はマクシミヌス・トラクスが即位し、軍人皇帝時代が始まります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　西暦２２２年、ヘリオガバルスの暗殺後、祖母ユリア・メサの力でわずか１４歳のアレクサンダルが皇帝に即位しました。知恵袋として、生真面目な法学者ドミティウス・ウルピアヌスを登用しました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ウルピアヌスの他にも１６人の元老院議員を側近に迎え、元老院との関係修復を図りました。アレクサンデルは財政再建や貧困対策に努め、若き賢帝という評価を得たのであります。しかし、側近の意見ばかり重用し、自分の影響力がなくなることを恐れた母マメアは、西暦２２６年、ウルピアヌスを更迭してしまいました。後ろ盾を無くしたアレクサンダルは、急速に評価を落とし始めます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　特に軍事能力は信用されず、西暦２３２年のサーサーン朝ペルシャ軍の侵略には辛うじて勝ったものの、ガリアに侵入したゲルマン人に対しては、金で解決しようと弱腰の姿勢が酷評されます。しかも、兵士の給料を削減しようとして軍部の不評を買いました。そして、マクシミヌス・トラクスが首謀し、母マメアと共にアレクサンデルを暗殺したのであります。ここにセウェルス朝は幕を閉じ、その後ローマは混乱の続く軍人皇帝時代を迎えるのであります。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>歴史</dc:subject>

<dc:creator>Toshio Ito</dc:creator>
<dc:date>2009-12-26T00:00:00+09:00</dc:date>
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<title>２３４年</title>
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<description>　西暦２３４年、蜀が魏に攻め込む第５次北伐の五丈原（ごじょうげん）の戦いを起こし...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　西暦２３４年、蜀が魏に攻め込む第５次北伐の五丈原（ごじょうげん）の戦いを起こしますが、諸葛亮は陣中で病死します。またこの年、後漢最後の皇帝、劉協が崩御し献帝（けんてい）と諡されました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　西暦２３４年２月、諸葛亮は５回目となる魏へ侵攻を再開しました。五丈原に布陣し、これまで兵糧がなくなって撤退していたことを反省し、兵士に屯田を行わせ持久戦の構えを取りました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　対する魏軍の司馬懿（しばい）は、五丈原を臨む形で対陣しました。諸葛亮はさまざまな陽動作戦を用いて司馬懿を挑発し出陣を誘いました。しかし、皇帝の曹叡から、守りの砦となれと出陣を禁じられていたのであります。５月、呉の孫権がこの戦いに呼応し、大軍を率いて魏へ侵攻しました。魏は東西から攻め込まれる形となったのですが、呉軍は合肥で負けると、孫権は全軍を撤退させたのであります。頼みの呉軍が撤退してしまったのですが、その後、蜀軍は１００日余りも魏軍に対峙します。８月、諸葛亮は過労のため病死し蜀軍は撤退し始めました。魏軍は撤退した蜀軍を追撃しようとしたのですが、諸葛亮の遺言で造られた木像を見て驚いた司馬懿は慌てて逃げたのであります。これが、死せる諸葛、生ける仲達を走らす、であります。仲達は司馬懿の字（あざな）であります。これを人づてに聞いた司馬懿は、生者を相手にするのは得意だが死者を相手にするのは不得手と答えたと言われます。またその後、撤退した諸葛亮の陣営を見た司馬懿は天下の奇才と驚いたと言われます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　魏軍と蜀軍の兵力は比べるまでもなく、魏軍が優れていました。北伐にほとんど勝機がなかったことは、当の諸葛亮が熟知していたはずです。それではなぜ戦いを挑み続けたのでしょうか。諸葛亮は戦争が得意ではなく、天才軍師としての評判は三国志演義の創作に過ぎません。それは蜀が蜀漢と呼ばれるように、蜀の存在意義が漢の再興であったからであります。魏を打倒して漢の再興を願った劉備の意思を叶えるために戦ったのであります。諸葛亮は、西暦２２８年に劉禅に上奏した後出師表で、鞠躬尽瘁、死而后已（鞠躬尽瘁し、死して後已まん：誠心誠意を尽くし、死を迎えるその時まで働き続ける）と綴っています。頭脳明晰の天才、諸葛亮は、自分を三顧の礼で迎えてくれた劉備に対する恩義に死ぬまで報いたのであります。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>歴史</dc:subject>

<dc:creator>Toshio Ito</dc:creator>
<dc:date>2009-12-25T00:00:00+09:00</dc:date>
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<title>２３３年</title>
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<description>　西暦２３３年、呉の虞翻（ぐほん）が没しました。頭脳明晰でありながら、頑固に己を...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　西暦２３３年、呉の虞翻（ぐほん）が没しました。頭脳明晰でありながら、頑固に己を貫いた人でした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　若い頃から学問に親しみ、老荘思想に卓越した学者でありました。また、易経にも精通し、医術にも長けていました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　呉の孫策に使えるようになると、巧みな話術で敵の将を説き伏せ降参させる活躍を見せます。孫策が没すると、曹操から招聘を受けるのですがそれを断り孫権に使えました。ところが、孫権は虞翻が率直に物を言うことが気に入らず左遷しました。呂蒙（りょもう）は虞翻の才能を惜しみ、関羽討伐に従軍させ活躍させます。虞翻は会わぬ相手には手紙を送り、その文面で相手を投降させる力を見せました。関羽が敗走したとき、孫権は虞翻に関羽の運命を占わせました。すると、虞翻は二日以内に首が断たれると予言しその通りになったのであります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そんな虞翻の活躍にも関わらず、孫権が神仙の話題をしたとき、不老不死の神仙などいるはずがないと率直に言ってしまいました。孫権はそれまでもいろいろと言われていたので、またもや虞翻を左遷したのであります。その後、遼東遠征に大失敗した孫権は、虞翻に使者を送ったのですが既に没していました。孫権は虞翻の子供を呼び寄せ、とり立てたと伝えられています。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>歴史</dc:subject>

<dc:creator>Toshio Ito</dc:creator>
<dc:date>2009-12-24T00:00:00+09:00</dc:date>
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<title>２３２年</title>
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<description>　西暦２３２年、魏の詩人、曹植（そうしょく）が没します。曹植は唐になって杜甫、李...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　西暦２３２年、魏の詩人、曹植（そうしょく）が没します。曹植は唐になって杜甫、李白が出るまでの最高の詩人と謳われています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　西暦１９２年、曹操の五男として生まれました。同じ母の兄に、魏の初代皇帝になった文帝、曹丕がいます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　幼少より詩をそらんじ、曹操の溺愛を受けました。しかし１４歳で父の遠征に従軍し、兄達と同じく戦場で育ちます。そのため、文武両道の才能が開花し、ますます曹操に愛されました。やがて、兄、曹丕と後継者争いが起きますが、曹丕が正式に太子に任命されると迫害を受けるようになります。西暦２２０年、曹操が没すると側近達が殺され、曹植は一介の地方の王に封じられ、その後各地を転々とさせられたのであります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　曹植を始末したかった曹丕は、ただ処分するだけでは面子があるので難問を出したのであります。曹植は自分が話せば詩になると吹いていたほどですので、やってみさせ出来なければ世間を欺いた罪で処刑しようというものでした。そして出した難問が、七歩あるく間に詩作せよというものでありました。この難問に曹植は、容易く、&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;煮豆燃豆萁、&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;豆在釜中泣。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;本是同根生、&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;相煎何太急。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;（豆を煮るに豆がらを燃やす、豆は釜の中に在りて泣く。本是れ同根に生ぜしに、相煎(に)ることなんぞ太(はなは)だ急なる。）と詠いました。これは、同じ根(両親)から生まれたのに、豆がら(兄)はなぜ豆(弟)をそんなにひどく煮る(辛く当たる)のですかという意味であります。曹丕はこれを聞き、深く恥じ入り、曹植を処分することはなかったのであります。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>歴史</dc:subject>

<dc:creator>Toshio Ito</dc:creator>
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<title>２３１年</title>
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<description>　西暦２３１年、蜀による第４次北伐が敢行されますが、食料不足により撤退しました。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　西暦２３１年、蜀による第４次北伐が敢行されますが、食料不足により撤退しました。しかし、撤退時に追撃してきた張郃（ちょうこう）を討ち取ったのであります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　西暦２２８年、街亭の戦いで張郃は蜀の前線大将、馬謖（ばしょく）軍の水絽を絶ってから攻撃し、蜀軍を撃ち破って街亭を奪還しました。戦略上の要所を奪われた蜀漢軍はこれで撤退したのであります。諸葛亮は道筋を押さえるように馬謖に命じていたのですが、これに背いて山頂に陣を敷いた馬謖は惨敗の責任を取らされ処刑されました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　西暦３３１年春、第４次北伐のため、諸葛亮は山岳部に進出し、李厳（りげん）に軍需物資の輸送を一任しました。夏になり、長雨で食糧輸送が滞ったので李厳は前線に補給困難なことを伝え、諸葛亮は撤退せざるを得なくなりました。そして蜀軍が全面撤退を開始した時、追撃してきた張郃を蜀軍は射殺したのであります。３年前の馬謖の敵をとったのであります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　戻ってきた諸葛亮に、李厳は食糧輸送に問題がないのになぜ戻ってきたのかと責任転嫁を図りました。また、劉禅には敵を誘い込む作戦だったと偽りの上表をしたのであります。諸葛亮が李厳の書簡を劉禅に提出すると、李厳は食糧輸送の失敗を認めたのであります。李厳を庶民に落とされ、梓潼（しとう）郡に流されました。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>歴史</dc:subject>

<dc:creator>Toshio Ito</dc:creator>
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<title>２３０年</title>
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<description>　西暦２３０年、アルダシール１世がローマを攻め始めます。この年、メソポタミアをペ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　西暦２３０年、アルダシール１世がローマを攻め始めます。この年、メソポタミアをペルシャのものとしました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　西暦２２６年、アルダシール１世はパルティア西部を次々と制覇し、クルドも破りました。そして、最高位のオリエントの支配者としてエーラーン（イラン）の諸王の王（シャーハーン・シャー）という君主号を名乗りました。このとき祖父のサーサーン名をとり、サーサーン朝と名づけたのであるります。これによって４００年続いたアルサケス朝が終わり、これから４００年続くサーサーン朝の時代の始まったのであります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　西部方面を拡張しようとすると、必然的にローマと対立することになるのですが、アレクサンデル帝に阻まれ、メソポタミア止まりでありました。東部、北部は順調に拡張し、サーサーン朝を広げて行きました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これ以後、サーサーン朝とローマ帝国は断続的に領土争いを続けて行きます。やがてローマ帝国は東西に分離し、争う相手が東ローマ帝国になると、サーサーン朝は有利に戦いを進めることになります。この話はもう少し後になります。&lt;/p&gt;</content:encoded>


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<dc:creator>Toshio Ito</dc:creator>
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<title>２２９年</title>
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<description>　西暦２２９年、孫権が呉の初代皇帝に即位しました。この年、蜀では劉備に仕えた将軍...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　西暦２２９年、孫権が呉の初代皇帝に即位しました。この年、蜀では劉備に仕えた将軍、趙雲（ちょううん）が没します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　公孫瓚（こうそんさん）の配下でしたが、青州で袁紹と戦う際に劉備と共に戦いました。公孫瓚が敗戦で自害した後の西暦２００年、劉備の配下となりました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　趙雲と言えば、西暦２０８年の長坂の戦いで、劉備の子の幼い劉禅を抱えながら甘婦人を助ける下りが有名であります。趙雲は眉目秀麗な二枚目俳優が演じることになっています。また、昼は千里、夜は五百里を走り、趙雲と意思疎通ができた白龍という駿馬を愛馬にしていたといわれます。そして、涯角槍（がいかくそう）と呼ばれた槍を得意とし、この槍で張飛と互角に一騎打ちをしていたのであります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　没後、趙雲は順平侯と諡されています。これは、柔順、賢明、慈愛、恩恵有る者を順と称し、仕事をするのに秩序があり、災禍、動乱を平定する者を平と称することに由来するのであります。まさしく、五虎大将軍と称せられる関羽、張飛、馬超、黄忠と同等の活躍をした名将でありました。&lt;/p&gt;</content:encoded>


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<dc:creator>Toshio Ito</dc:creator>
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<title>２２８年</title>
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<description>　西暦２２８年、魏と蜀の間で街亭（がいてい）の戦い、魏と呉の間で石亭（せきてい）...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　西暦２２８年、魏と蜀の間で街亭（がいてい）の戦い、魏と呉の間で石亭（せきてい）の戦いが起こります。魏は蜀に勝ち、呉には負けました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　劉備の願いは漢王朝の復興でありました。その意思を汲み、諸葛亮は自ら軍を率いて北伐に挑みます。蜀の軍事力からすればかなりの無理ではあるのですが、これ以降、魏への侵攻は５回も行われるのであります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　西暦２２７年、諸葛亮は歴史に残る名文、出師の表を著し、練りに練った第１次北伐を開始するのであります。魏に対抗するため、蜀と呉は同盟を組み、二方向から攻めることになります。惜しむらくは、両軍の攻めが数ヶ月の差があったことです。赤壁の戦いのように、同時に攻めていれば戦況は変わってたことでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　西暦２２８年春、第１次北伐は最初こそ上手く行っていたのですが、諸葛亮の命令に背いた先鋒の馬謖（ばしょく）は、魏軍の張郃（ちょうこう）に街亭で敗れ、蜀軍も全軍撤退したのであります。これにより蜀軍に降伏したいた天水、南安、安定の３郡が魏軍に降伏してしまいました。諸葛亮は馬謖をかわいがっていたのですが、敢えて馬謖を処刑しました。これが有名な故事の泣いて馬謖を斬るであります。同年夏、呉は陸遜（りくそん）が石亭の戦いで魏軍を破ります。陸遜は関羽を討った名将であります。同年冬、諸葛亮は第２次北伐を敢行しますが、食糧不足により撤退しました。しかしこのとき追撃してきた魏軍の王双（おうそう）を討ち取り、これは陳倉（ちんそう）の戦いと呼ばれています。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


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<title>２２７年</title>
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<description>　西暦２２７年、高句麗の第１０代王、高延優（コヨヌ）が崩御し山上王（サンサンワン...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　西暦２２７年、高句麗の第１０代王、高延優（コヨヌ）が崩御し山上王（サンサンワン）と諡されました。次代は子の高憂位居（ウウィゲオ）が継ぎます。また、前年の２２６年、魏の初代皇帝、曹丕（そうひ）が崩御し、次代は子の曹叡（そうえい）が継いでいます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　高延優は、先代の故国川王（コグッチョンワン）の弟であります。故国川王が崩御したとき王子がいなかったため、兄の発岐（ファチ）と争い王位を勝ち取りました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　西暦２０８年、祭祀に用いる生贄の豚が逃げたので、係りの者が酒桶村まで追って行きました。そこで２０歳前後の美しい女性が豚を捕らえ、その者に渡しました。延優はその話を聞き、その女性に興味を示しわざわざ会いに行ったのです。そしてその女性と出会い気に入って一夜を共にしたのであります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　延優の王妃于氏はこれを知り嫉妬して、この女性を殺そうとしましたが失敗しました。まもなくこの女性は男子を産んだので、延優は彼女を側室として封じました。西暦２１３年、この子供を立太子しました。立太子の名は高憂位居であり、次代の王となるのであります。&lt;/p&gt;</content:encoded>


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